岡安由美子さん
(タレント・レーサー)
小池里予さん
(スピリチュアル研究家)
   
 
 【第7回】 2001年3月掲載用

 ●岡安さんと霊界の関係は?
 

丹波
 岡安さんは大変縁があって、僕が手掛ける作品は勿論、二人が会う作品等もあって、やはり縁でしょうね。

岡安 芸能界でも、会わない方は全くお会いしませんし、何度も一緒になる方とは、本当に偶然なんでしょうか不思議ですねー。

丹波 岡安君とは10年以上のお付き合いになるよね。今日ご一緒する小池産は大変貴重な「スピリチュアリズムニューズレター」を送っていただいています。
 私は、霊界研究を40年近くやっていますが、その私が感心する程中身も濃く、素晴らしいんです。

小池
 岡安 よろしく御願いします。

岡安 私は霊感が強い方で、幽霊と言うよりは妖怪の類をよく見ていたんですよ。これは何なんだろうかとよく思うことがあって、旅先のホテルの隅に、あっ何か居るイヤだナーみたいな…。

丹波 霊媒体質だね。岡安君は妖怪と言っているけれども、幽霊と同じ様な者だ。

岡安 「となりのトトロ」と言うアニメーション映画に真っ黒くろすけと言う、半透明のボウルのような妖怪だと思うんですけれども、(映画の中でイタズラをする、マリモのような形をした直径30センチ位の煙状の登場キャラクター) そう言うのが家にも居て、あんなにマンガチックじゃないんですけれども、夜など部屋の隅に丸く黒いのが居て、よく見るんです。

小池 非常に霊的に敏感な体質で、丹波先生が仰る通り霊媒体質と言うことですね。例えばお友達と一緒に居らして、皆がその場で幽霊を見たとか……、そう言うことがありますか。

岡安 同時に見たことはありますが、一人の時が(見ることは)多いですけど。

小池 霊を見ると言うことも二種類ありまして、霊媒体質の方が肉体の目ではなくて、霊眼と言いますか、霊視するという形で霊を見ると言うこともありますし、または霊の方が、霊媒体質の方のエネルギーをチョッと拝借して、エクトプラズムと言う着物を纒って、物質化して現れて、肉眼で見える様になる場合がありますね。何れにしても、その場に霊的に敏感な方がいらっしゃることが幽霊を見る条件です。

丹波 小池さんの場合は、見る場合は両方で見るわけですか?。

小池 いいえ、私は俗に言う霊能者ではございません。霊視も致しません。

丹波 ご主人(小池英氏)ですか。

小池 ええ、主人は大変そう言ったことに対して敏感で御座いますけれど。

丹波 この間の全国大会(平成11年)で、私の女房が後ろに居ると御主人が仰ったのですが、その場合には霊視ですね。

小池 そうですね、みなさんは御覧にならないと思います。そう言う(霊媒)体質の方は別ですが……。

丹波 その際に、御主人は女房と(生前)会ったことがないんですが、感じられるんですか、それとも向こうの世界では言葉は必要ありませんので、私は丹波哲郎の女房ですと言うことを御主人に伝えて……。

小池 テレパシーで判りますし、呼べば来ると言うか、必ずそれが出来るという事ではありませんけれど……。

丹波 私の行くところ行くところ付いてまわっているんでしょうかね。

小池 そう言うことではないようです。全国大会の時は、そのように状況を……用意致しましたと言うと、ちょっとアレなんですけれども…。(言葉を濁されました)

丹波 私は、付いてきてくれて嬉しいんですよ。

小池 霊界の奥様は、丹波先生のなさっていることの価値を、地上に居らした時の何十倍と言うふうに理解していらっしゃいます。そして、先生が本当に人類の為に貢献する歩みをなさっていることを、心から誇りに思っていらっしゃいます。
 まだ、御自分から積極的に霊的心理を普及するために働きかけると言うまでは、至っておりませんけれども、先生のなさっていることの価値は霊界に行きますと判りますので、誇りを持っていらっしゃいます。

丹波 目も悪かったんです。私がこれは良いなと思った本を枕元で読んで聞かせると、もう寝ているんです。そのうえ僕が「霊界に行くと車椅子なんか全然必要なくて、マラソンにも参加できるんだよ」なんて言ってもね、『へー』なんて笑っているだ。『そんな事はどうせ死ねば判ることだから、別に研究する必要ない』なんて言っていたんだ。生前は全然霊界に興味を示さなかったんだ。

小池 今は、とてもお判りになっていますね。

丹波 嬉しいですね。  


 ●この世に生まれてくる目的は何か?

丹波 大テーマです。先ず小池さんに伺いましょう。

小池 これは、「魂を成長させるため」と言う一言に尽きます。

丹波 それしか無いですね。

小池 その通りです。地上と言うところでさまざまな体験を積んで、本来の生活の場である霊界に備える。それ以外にありません。

丹波 霊界を研究した者が、異口同音に、瞬間に答えることです。この世に生まれた目的というのは、己の魂の向上。これ以外にないんだ。己の魂の向上と言うのは、人のために尽くすと言うことオンリー(それだけ)自分の事、金、地位、名誉そんなものはなんにもならないんだ。それらは、魂の成長には毒です。
 具体的にどうするのかと言う質問もありますが、折に触れ、時に触れ、あらゆる状況の下で人のために尽くすと言うのは、自然にその答、やり方が出てきます。直感的にこれはやってはいけないこと、これはやるべき事、大袈裟に言えばこれは命を懸けてもやる。そういう事だ。


 ●魂が自覚して生まれてきても、
      肉体を持つと何故自覚が無くなるのか?


丹波 人間、即魂です。乗り物に例えると、車が肉体で運転手が魂だから、車がどんなに立派でも右に行くのも左に行くのも、魂である運転手が決めるのです。

岡安 修行の場と言うことなんですけれども、前世の自分が有り、今の肉体でこの世に生きているんですが、全く(前世と)違う環境に降りてきて、人生を歩むと言うことなんですよね。


丹波 そうです。前世でとても美人だったら、今度生まれてくるときには、「おかめ」に生まれてくる方が魂の修行になるわけだ。生まれてくるときは、魂の軌道修正すべきところが必ず有るわけです。それに気が付いている人は修行しやすいけれども、全然気が付かない者は己の不幸をこぼすわけです。何で私だけが…、何で俺だけが…、と言うふうに自分自身で勝手に怒るんだ。何で私は生まれたのかという疑問を持つ人は、自分の環境の不満足から来る場合も有るでしょう。しかし、環境の不満足こそ修行の為になるのであって、環境が自分のために都合が良いというのは、修行にならないんだ。良い環境は何かのご褒美とも考えられますが……。

小池 生まれてくる意義というのは、魂の成長の一点に尽きますので、地上で様々な困難が生じて参りますけれど、使命に合わせて正しく乗り越えて行くと言うことです。地上は本当に修行の場ですので、困難を苦しいもの、嫌なもの、避けたいものというふうに捉えるか、それとも自分にとっての魂を成長させるための挑戦の課題とするかです。
 乗り越えられるものだから神が与えて下さったと言うような、前向きの気持ちで、苦しいことは勿論苦しいのですけれども、そこを乗り越えていくと言うことが地上の意義だと思います。

岡安 中学校、高校時代に、生まれてきたからには何かしたい。自分は何故生まれてきたのだろう……。そう言う時期はありますよね。人のためにと言うのは考えますよね。

丹波 だからね、あなたの場合はこの世であなたに与えられたご褒美。その美貌を活かさないといけないんだ。自分が得意がっているだけじゃ駄目なんだ。人に喜びを与えないと。あなたは自分が美人だという意識がないんだ。いや、周りで見ていて判るんだ。あなたは周りから好かれるんだ。大概女優同士の場合やきもちが有るんだ。美人は周りからちやほやされるから、特に女性が嫉妬するんだ。ところが岡安さんはケロッとして居るんだ。

岡安 女優らしくないんで、ライバル視されないんですよ。

丹波 ごく自然なんだ。それが良いんだよ、この人は。舞台でも映えるんだ。舞台「大霊界」は(稽古のスケジュールの都合などで)途中参加だったよね。最初からいたら主役でしたよ。

岡安 丹波先生とお会いしたのは舞台「大霊界」の前、映画「大霊界」の時だったのですけれども、台本を戴いたときにタイトルが怖かったんです。「大霊界!」霊がいっぱい寄ってきて、身動きとれなくなっちゃうんじゃないかなんて、凄く怖くなって……。 それで初めて先生にお会いした時に、正直に「チョッと怖いんですけれど」とぶつけたら、「いや、これを境に君は二度とバカバカしいものを見なくなるから」と仰られて。初めてお会いしたのに、すごい安心感を持ったんです。でも本当に、それ以来怖いものは見なくなったんです。

小池 常に(霊に)関心を持ちすぎたり、怖がったりすればからかいの対象になります。ですけど、しっかりした意識を持って、霊に対して対応すれば、(低級霊の)影響を受けなくて済むわけです。

丹波 だからこの世に生まれてくる目的というのは、ズバリ言えば人のために尽くす。そして、人のために尽くすと言うことは、けっきょく自分の魂を磨き上げるための大いなる手段です。
 その他に手段はあるかもしれませんが、消極的に言えば逆境を嘆かない。逆境で有ればあるほど明るく過ごす。障害を持ったお子さんの父親、母親はそれを心の負担にしないで、私に与えられた本当に素晴らしい機会だと言うふうに捉えたならば、その人は考えただけでも向上し、魂は磨き上がります。

岡安 来世でご褒美が来る。

丹波 そうだね。その他不正をして儲けた者は、一時は金銭的には勝つかも知れないが、霊的には負けだ。


 ●運命は決まっているのか?

丹波 これも大テーマだね。

小池 宿命と運命というものを、しっかり区別して考える必要があると思います。宿命は決まっており、誰も逃れられないものです。しかし、運命は変えられます。結論から言うとこう言うことです。
 宿命というのは、人が死んで霊界に行き進歩の過程を辿りますと、当然もっと成長したいと思うわけです。進歩したいというのは魂の本性です。そうしますと、地上で作ってしまったカルマと言いますか、悪い因縁が、更なる向上の足かせになっていると言うことに気が付くようになります。
 それで、何としてももう一度地上に生まれてその償いをし、カルマを消滅させるような人生を歩みたいと希望するようになります。その結果再生と言うことが実現するわけですけれども、その時に前世で作ってしまったカルマを、次の地上人生に於いてそれに相応しいだけの苦しみを受けて、それを乗り越えていくと言うことによって、カルマを清算することが出来ます。
 ですから、霊界に於いて向上を望むものは次の地上人生では、どんな苦しみを受けるような環境に生まれて、どんな人生を辿って、どのように向上していこうと言うことを、自分で選んで決心して生まれてくるわけですね。ですから困難を決めて生まれて来ることが宿命と言うことです。これは逃れられないものです。これは誰でも人生の土台にあるものなのです。自分が地上人生で作ってしまった悪いカルマというものは、自分が次の人生で個人として償わなければならない。これが、霊界の因果律(システム・法則)です。その苦しみ、困難は最も相応しい時期に、最も相応しい形で現れて参ります。
 それは、例えば配偶者と死別するとか、子供を亡くすことであるとか、事業の失敗から破産する、人間関係の不和等味わう困難は色々違いますけど、必ずグッドタイミング(適切な時期の意)で現れて来ます。これが宿命です。

丹波 具体的に補足説明しますと、例えば女性として生まれ、誰と結婚して子供が何人出来、そして子供との死別があり、旦那も事故等で死ぬ。しかしその後思わぬお金が親戚から遺産として転がり込む。その大金によって再婚のチャンスが来る……。これ、宿命なんです。決まっていて、どんな事があっても動かせないんだ。

小池 人生での、大きな所で受けていく困難というのは決まっており、宿命的なものです。但し、運命というのは変えられます。困難は宿命だと申しましたけれども、その困難に遭遇したときに、人によって対処が違うわけです。ある人は前向きに乗り越えていこうとします。苦しくても正しい生き方をしようと努力するわけです。当然それに見合った結果が出てきます。後の人生が変わってきます。
 同じ様な苦しみに遭遇したときに、ある方は何とか避けようとします。何とか先送りして誤魔化して生きられないか、又は責任転嫁する等苦しみへの対処の仕方が違うわけです。自由意思があるので、その都度その都度、人間は選択して行くわけです。当然結果が違ってくるわけで、運命というのはその様にして変わってくるわけです。宿命的なものから生じてくる苦しみにどのように対処するかによってその後の人生行路というのは大きく変化してきますので、それが運命と言うことですね。

丹波 僕は俳優だから、台本で説明すると、台本は神様が書いたもの。神様だけが知っている。知らないのは俳優と見ているお客様。
 例えば、その主人公は最後に切られて死ぬのか何うか、もう決まっているんだ。ただ、人生のシナリオ(台本)は神様が書いたものだから我々は知らないんだ。ただ、自分の人生行路で与えられた役柄に、本当に感動してやりこなせれば、お客が感動する。自分の努力によってその芝居が面白くなるかつまらなくなるかは、俳優の努力次第。同じ役でも演じる人によって(出来が)全然違うわけだ。
 台本が宿命。運命はやりこなせるかどうかは努力にかかってる。しかし努力でも、的外れな努力。即ち役柄に適している者と、適さない者とあるわけだ。その時はぎこちないんだ。
 しかし、適さないと思われた者が努力し、お客が「わっ」と感動して幕が閉じれば、その舞台は人生行路だから、その人は成功したというわけだ。

岡安 困難にあったときに、きちんと努力して乗り越えないと魂の修行にならないんですね。

小池 (対応によっては)又、悪いカルマを自分で作ってしまうと言うことになってしまいますね。カルマを消滅させるために生まれながら、カルマを積み重ねてしまうと言う結果になります。

丹波 説明の途中に出てきた「因果律」これについて説明いただけますか。

小池 「蒔いた種は刈り取る」と言う譬え一言で言えると思うんですけれども、自分で為した行為だけでなく思うことも、今の自分というのは全てかつての自分が作った自分ですので、蒔いた種は刈り取ると言うことです。
 これは、地上、霊界一貫してつながった摂理ですので、死ねば帳消しになるとか、死ぬ間際に懺悔すれば、帳消しになるとか言うことではないのです。勿論反省すると言うことは、自分を変え、償っていく第一歩ですので、気付くという事は出発点なんですけれども、帳消しにはならないのです。やはりそれなりの苦しみとか、同じ困難を味わって向上する道というものが用意されます。 丹波 因果律と言うのは、よく使われますが、人はその意味を深く味わうことなく、聞き逃しがちです。
 因果律とは、これは大切な事なので良く聞いてもらいたいんだが、因果、これは小池さんが説明されたように蒔いた種は刈り取らなければならない。自分が刈り取るんだ。他人が刈り取るんじゃないんだ。自分の蒔いた種は、親が、子供が刈り取るんじゃないんだ。自分なんだ。ここが実にシビア(厳しい)なんだ。
 人を雇って刈り取らせることなど出来ないんだ。今の肉体的障害というのは、前世で自分が人に与えた危害とそっくりなのが自分に返ってきています。恐ろしいほど正確に帰ってきています。これを因果律と言う言葉で表しています。律というのは揺るぎ無く決められたものです。

岡安 よく自分の不運を嘆く場合、霊能者などが「それはあなたの御先祖が…」とか「御先祖があの世で苦しんでいるから、あなたに苦しみが来る」「御先祖の供養をしなさい」と言うことが有るんですが。

丹波 それは極めていい加減な霊能者。先祖が苦しんでいると言うが、その先祖とは何か?。先祖とは自分なんだ。だから供養しなさいと言うのは反対なんだ。霊界の者が人間界に向かって供養するというなら話は分かる。人間界の者が霊界にいる者に対して供養すると言うのは何故だと言うことになる。
 霊界は素晴らしい所なんだから、何故供養されなければならないのか。第一先祖が苦しんでいるなどと誰が決めるんだ。誰がそんなこと判るんだ。いい加減な霊能者がいるんだ。その様な者は相手にしては、駄目なんだ。


岡安 結構それで騙されそうなんですが……。

丹波 霊界にいる仲間が、人間界にいて苦しんでいる者に対して供養する。これが本当の姿でしょう。そして、祖先というのは自分のことだと思ったら良いんだ。〔類魂の説明有り〕この様に類魂が判れば天才の説明が出来ます。最初に出てきた者が持ち帰った才能を次の者が受け継ぐ。受け継いだものに次の経験が足されます。その繰り返しが行われた場合、天才を生み出すんだ。しかし、才能は受け継ぐけれど個性はちゃんと存在します。また、一代で培ったものじゃないから天才の才能は弟子に受け渡すことは出来ないんだ。  とにかく、これまでの供養という感覚は根本的に間違っています。

岡安 では、同じように見てもらうでも、占いについてはどうなんでしょう。

丹波 たまに当たることもあるでしょうが、先ずそういうものを当てにしては駄目だね。本当に心が弱っているときの、右か左かと言うようなサイコロと同じ。

岡安 一度霊能者に見ていただいて、「あなた、早死にするわよ」て、言われたんですよ。先ほど言われた宿命が判る方がいるのでしょうか。それは当たるものなのでしょうか。                                         (来月へ続く)

                 《来月のお客さんも、岡安由美子さん・小池里予さんです》