稲川淳二さん
(タレント)
小池里予さん
(スピリチュアル研究家)
   
 
 【第6回】 2001年2月掲載用

 ●水子、幼児は死後どこへ行く(逝く)のか?
 
小池  (先月より)やむなく、中絶などによって戻ることになった胎児的なスピリットは、未熟な霊なんです。状態が違うんですね。ですから、霊界に於いてもそう言う霊を世話をして、養育する係りの霊に預けられるわけです。そして普通とは違う、特別な成長の道を辿って行くことになります。ですから、祟りをするというような存在では全くないんです。辿るプロセスが違うんです。

丹波
 そこは間違いないみたいですよ。絶対に祟りはない。

小池 祟りはないんです。ですから、そう言うことを口にする霊能者がいらっしゃいましたら、どうぞ賢明になって下さい。


 ●供養の必要は?

小池 率直に言いまして、中絶であるとか、流産で子供を亡くされるということは、お母さんにとって非常に心の痛みを覚えることになるんです。
 そして、中絶というのはある種の殺人であることは間違いないんです。勿論、動機の問題で一概には申し上げられませんが、殺人であることには変わりはないんです。
 ですけれども、いつまでも自責の念とか苦しみ、後悔とかをずーっと引きずっていてはいけないんです。その念に低級霊が引き寄せられてからかいをするので、霊障と言うなら寧ろ、そう言うようなことで起こるということなのです。
 ですからお母さんの持つ心というのは、もう二度とその様なこと(主に利己的理由による中絶を説明しております)は無いようにしようと、本物の決心をして、心を変えられたらいつまでも(自責の念に)とらわれる必要はありません。とらわれる事は本当にマイナスです。人間というのは、通常に生まれている以上必ず過ちを犯します。過ちを犯して、そこから教訓を学んで成長していくのが地上人生の目的ですので、失敗は誰にでもあることです。

稲川 引きずっちゃいけないということですね。

小池 はい、そうです。自分を責めて、苦しめて、いつまでも自分に捕らわれていることですので、本心からの反省をなさって、二度とそれはしないと思われたら、そして本当に正しい生き方をして行こうと思われたら、それが一番の供養です。やった事はやった事として帳消しになると言う意味ではありませんが、自分がより良い利他的な生き方をすると言うことが、一番の供養になるのです。


  ●水子になるのが決まっているのか?

小池 自由意思がありますから、中絶することが決まっていたと言うことではありません。その道を選ぶか、別の道を……。

丹波 早く言えば乗るバス(母親)を間違えたと言うことなんだ。
 では、小池さんに質問があるのですが、いわゆる金属バット……十五・六才で両親を打ち殺してしまったというのは、私の知る限りでは二件有るんですよ。確か父親を殺しているんです。そして、止めに入った母親にも向かっているんです。
 両親を殺して、自分はどうなるのかと言うと、自分は帰ろうとしているんだな、霊界へ。だから幼児にして死んでいく自然死、死産児を含めて自分の意志で帰ろうとしている者は、その時点では人を殺めたり両親を傷つけられないけれども、一五・六才になると、間違ってきてしまった両親ということで、金属バットで殺して、自分は生活できないから当然自分もこの世から消えるために、そう言う意識が有ろうと無かろうと、そう言う行動をとってしまった子供というのは、霊界へ帰ろうとしている。要するにマラソンで言えば、途中で止めてしまって、次のマラソンに懸けようとしているんだと思う。これはね、滅多に有るもんじゃないんだ。


稲川 例えば、それで霊界へ帰りますよね、帰った彼は戻ってこれるんですかね。 やったのは生身の人間界じゃないですか。子供は(霊的)背景なんか分かんないですよね。そういうものがあって、動かされてやった後、死にますよね……。

丹波 そこなんだよ。これは地獄霊…地獄に存在する者がたまたま間違って出てきてしまったのか、或いはその両親の中で成長しても自分の目的に沿わないんで、即ち間違ったバスに乗ったから運転手を殺して降りたのか……。
 そうするとどうしてもそういう者の霊界に於ける存在の仕方というのは、地獄系だと思います。地獄の状態を呈しているところしか帰れないと思うな。これが天国へ帰るとはとても思えない。

稲川 その段階でね、なるほど。

丹波 地獄霊がたまたま間違って出てきたのか、或いは自分で帰った場合医者は原因不明、自然死としか病名は付けられないけれども、一五・六才で両親を殺して帰ろうとする者はどう解釈したら良いのでしょうか。

小池 幼児の死と言うことから話しますが、子供が小さいうちに亡くなるというのは、地上的な目から見ますと大変な悲劇、大変な不幸ですね。親にとっては身代わりになって死んでやりたかった位に思うわけですけれども、霊的な目で見ますと、全くそう言うことではないわけです。
 幼くして死ぬ霊と言いますのは、概して地上生活に於いて獲得するものがあまり無いと言いますか、もうある程度の成長を遂げていて、地上体験がさほど必要無いという霊です。
 親には試練です。両親が子供を亡くす不幸に遭遇するという。勿論(試練は)親だけとは申しませんけれども。

丹波 両親はこれから人世を生きるに当たって、子供に死なれたという悲しみは大変なものですが、処罰されたという形か、或いは修行の為、どっちにしても(子供の霊にとっては)同じですよ。
 ところが一五・六才の起こした事件は、両親の処罰も修行も無いんだ、殺してしまうんだから。  

小池 先ほど申し上げた自由意思というものが御座います。一つの出来事に対して、右を取るのか左を取るのかと言うことがありますので、必ずしも両親を殺すということが、決定されていて生まれて来るというわけではないんです。
 こういう両親を選んで、非常に家族が不和で苦しむ家庭環境に置かれるということは、勿論霊界から選んで来ます。それは自分のカルマの償いであったり、ある面で(前回の)地上の未熟な体験を埋め合わせるというようなところから、選んで参りますけれど、それが全てと言うことでなく、困難に遭遇したときに、自由意思により右を取るか左を取るかは、その人自身の選択なのです。
 人間というのは、神からロボットとして命を与えられたわけでなくて、操り人形でもありません。自分の意思で、自分の運命を切り開く事が出来るように、きちっとカルマの清算が出来るように、自由意思を与えられておりますので、家族の中で苦しむとか、子供にとってとても嫌な両親を持ち、精神的圧迫を受けるとか、不幸な家庭環境下に生まれるとか、いろいろあるわけですけれど、それは選んで来た環境ですので有りますけれども、殺人を犯すと決まっていたわけではないんですね。

稲川 しかし、今お話を伺っていると子供が小さいときに死んじゃった、辛いですよね。わけがあって堕ろしちゃった。沢山いらっしゃると思うんですよ。でもこうやってお話を聞いていると、本当はいけないのかもしれないけれど、少し救われるところがありますね。


丹波 子供達はどうして居るかというと、霊界で子供の園と言うところで実に丁寧に育てられるんだ。育てるのは女性。人間界で子供を持ったことの無い女性が選び出されて、本当の子供のように育てる。向こうへ逝ったら男女の性別なんて無いんだが、女性として人間界で生まれて、帰ってきた場合しばらくの間女性としているわけだね。そして人間界で経験したことのない子育てを志願するわけだ。この子供達は、元々水子や幼くして帰った者なのだが、霊界で育てられる時間は人間界の5倍位の時間で育ち、人間界で、(霊界では)もう5才になっているかと思えば、まだ霊界では1才なんだ。実にゆっくりと育つらしいんだ。実に丁寧に丁寧に育てられます。その子供達は何と、人間界をジーと見ているらしいんだ。そうすると両親がいつ(霊界へ)帰ってくるのか判るんだ。そして、帰ってきた親をお帰りなさいと出迎えるんだ。霊界で育った子供でも親は判るんだ。劇的な再会だ。そこが霊界の不思議なところだね。
 又、子供は妖精とお友達になります。両親を妖精の森に案内して慰めようとするらしいんだ。そして何れ子供と親は別れていきます。でも、親子の再会という事は、鉄則のようです。

稲川 親子の縁ですね。生きて生まれて、あんたは私の子供ですと言うことより、もっと魂の縁という言葉の方がピタッとしますよね。

小池 幼児で亡くなった霊の場合、幽界という死んですぐの世界では(子供の園は)有ると思いますね。水子、自分で中絶してしまったと言う場合には霊界のシステムの中で引き合わされると言いますか……、幼児で亡くなったのと、中絶というのはチョッと違います。霊界での成長(時間)に関しては、判りません。詳しい者に聞いてお答えします。

丹波 霊界での年齢、容姿についての研究はいかがですか。

小池 要するにあちらの世界に逝きますと、その人の霊的成長度に見合った容姿と言いますか、内面が成熟していらっしゃれば実に素晴らしい活き活きとした若者であったり、壮年期という大人の霊になります。

丹波 下から逝っても二十才、上で死んでも二十才…。女性は大体二十才位、男性は三十五・六才が適当と…。

小池 大体そんなところだと思います。

丹波 ところがね、お年寄りが居るんだ霊界で。

稲川 たまにですか。

丹波 たまにじゃないんだ。随分出て来るんだ。乃木大将からの霊界通信が有るんだが、当時の姿でいらっしゃるんだ。

稲川 はーそうですか。あのーアメリカや旧ソ連でも、軍と霊的な研究と言うのはけっこう表裏と言いますか、つながって不思議な流れを見せますよね。

小池 地上の人間に、自分は乃木だと判らせるために、ある程度自由に姿形をとれます。それと、例えば七十才で亡くなっても三十五才位の充実した姿になるということもあります。

丹波 その通り千変万化です霊界は。今私の女房殿がね、三十才位の姿で絣を着て田植えをしているという霊界通信があるんです。


 ●霊界に行っても家族や夫婦で
        一緒に暮らすのですか?


丹波 質問に答えることは霊界事情を普及させる。即ち生命は永遠だということを、一人でも多くの人が知ると何う言う効果が有るかと言うと、例えば時間に余裕のない者は交通事故を起こしやすいよね、即ち時間に余裕がないと追い越し等やってしまう。

稲川 うーん、やりますよねー。

丹波 時間に余裕がある場合、追い抜きなんてとんでもない事で、人に道を譲ってあげるという事までやってしまうんだ、今までやった事のない者まで……。そうすると譲られた者は簡単だけど挨拶するよ、そうするとこちらもキザっぽく「やぁ」なんて言って、その日一日気持ちがいいと言うことがバカでも判るんだ。今まで追い越しばかりやっていた者でも。
 これは余裕があるから、人生世に余裕があると言うことは、死というものが無いんだという知識からしか生まれないんだ。永遠の生命と言うことが判れば、誰でも、どんなヤツでも人に何か尽くそうと言うことが極自然に湧いてくるよ。人のために尽くすと言うことは、必ず自分に返って来るんだ。

稲川 いやー、感じるナー。確かに私車好きですよ、でも運転するときは時間が有るときしか運転しないんですよ、何故かと言うと、荒くなってしまったときに自分が殺伐とするんですよ。怖いんですよ、夢中でやっている自分が。

丹波 如何に人の為に尽くすか、これが大テーマ、大目的。これしか魂は向上しないんだ。だから、我々が霊界事情を伝えると言うことは、極当たり前の、極普通の人の疑問に答えると言うことが大切なんだ。だから、質問の「夫婦が霊界に逝ったら、また一緒に暮らすのか」なんて言うのは生々しい一般の生の声です。

稲川 よく、仲の良い御夫婦ですと、生まれ変わっても御一緒になりますか、何て質問すると、成りますとか、成るかもしれませんなんて言いますけれども…。

丹波 これは、淳ちゃん非常に当てはまる質問じゃないかい。(笑い)  世の中偶然というものは無いんだ。無いんだけれども偶然じみて、淳ちゃんが最初に答えてもらいたいね。

稲川 私が?、私は別に…。

丹波 淳ちゃん別居生活なんだから。

稲川 私、自慢じゃないけれど別居生活ですよ、八年十ヶ月(一同爆笑) 霊界で又一緒に暮らすと言っても、又じゃ無いですからね私の場合……。私の場合冷たい別居じゃないんですよ、たまたま時間、場所(住居と職場)が合わな、住んでるところが違うだけなんですよ。

丹波 それ、言い訳かい?

稲川 ええ。ハハハッ。でも十年以上は一緒にいたんですよ。

丹波 何で離婚しないんだ。

稲川 それは、愛が有るからじゃないですか、もしかすると?

丹波 もしかすると何て、際どいね。じゃあ(霊界で)どうなんだい、答えて。

稲川
 私は多分、一緒に暮らさないんではないかと思いますね。霊界というのは、私は因縁めいた話をするんですが、多分夫婦というのは現世だからこそ出合えた。又向こうへ逝ったら別のものではないかと思うんですよね。又女房と一緒になって霊界で別居するんじゃ堪らないですもんね。
 これは私の考えなんですが、二十歳位でつき合った頃の好み趣味が、何十年経って同じ趣味であるか何うかですよ。私が若い頃に細身が好きだったのが、歳をとって太身が好きになるかもしれない。そういうときに「あっ、私はこういうタイプが好みだった」と思った瞬間に距離が開くじゃないですか。有りません?
 別居というのは最も美しいです。(笑い)あのね、美しいものというのは距離があった方が良いんです。例えばですよ、質問します。綺麗な景色の中に住みたいですか、それとも綺麗な景色が見えるところに住みたいですか?

丹波
 哲学的だね、成るほどうまいこと言うな―。 ハイ、良い景色の見えるところに住みたい。

小池
 そうですね…。 (微笑)
 これは、本当の愛情が有れば、霊界で逢うことは出来ます。ただ、魂の成長レベルが違えば一緒に長い間住むということは出来ません。ただ、死んで暫くの世界、霊界に入る前の準備の世界であり、地上臭を拭い去る幽界に於いては願望が全て叶う世界ですので、逢いたいと願えば、一時的に家族や夫婦が一緒に生活すると言うことが出来ます。
 しかし、これは飽くまで一時的なものであって、霊界というのは魂の成長レベルに見合った者同士が、親和性によって一つのグループを作って住んでいますので、夫婦であっても親子であっても、成長のレベルが違えばバラバラの所へ行く様になります。幽界は一時的な場ですので、霊的意識が芽生えてきたらその様になります。

丹波
 そうすると、夫婦が霊界に逝って逢うと言うことは場合によっては出来るかもしれないけれど、暮らすと言うことは非常に数が少ない。類魂の場合は当然同じ所へ帰って行きますが、夫婦として暮らすのではなく、一員として暮らすわけで、夫婦は人間界だけで解消されると言うことですね。

稲川
 今の質問では、霊界では一緒に暮らしたくないと言う感じがするんですが。最近旦那が定年になると妻の方から離婚するのが増えているじゃないですか。我慢していたんですよ。 

丹波 若いときは、セックスと結婚は別と言いながら、一緒になる場合もあるじゃないか。

稲川
 男というのは変な情が有って、段々自分の手の中に入ってくると、離せないんですよね。

丹波
 でもね、極普通に出発したのに、一緒に暮らしていくと、あっこんな良いところがあったんだ、あっこんな素晴らしい人だったんだと判るときが有るんだ。私の女房殿なんですけれどね。

稲川
 色々伺っていますが、大変なところから出発しているそうですね―。

丹波
 そうなんだけど、なんと最高の女房だったんだ。


 ●憑依現象とは?

稲川 ある事件なんですが、熊本の方で自分の息子に狸が憑いたというんで、母親が棒で殴り殺したんですよ。今時知恵の無いと言うか、思慮のない母親ということで、取材に行ったわけですよ。確かに独特なものがある村だったんですけれども、事件の時亡くなった息子さんのお姉さんと、お医者さんも居たんですよ。その医者が真面目な顔で「誠にこういうお話をすると、わたし医者だから誤解されると困るんだけれど、異常の報を受けて駆けつけたら、お母さんが息子さんを棒で殴っていたんです。その時に私(医者)もお姉さんも見ているんですよ、息子さんの肩から黒い影が走っていくのを。でも、それを医者の私が言ったんじゃ世間的に立場があって言えないんですけれど、お母さんを庇うんじゃないが、実を言うと見ているんです」と言うんですよ。その人達は狸という形しか知らないから狸と言ったのかもしれませんが……。


小池
 憑依現象というのは、心理学では多重人格と言われまして、別の霊が関与することを否定しています。潜在意識が出てきた等と申しますけれども、これは、そう言う事ではありません。仰るように、低級霊が霊媒体質者の意識を支配すると言う状態、操り人形のようにコントロールする状態です。オーラとオーラが融合すると言うことなんですけれども、本人自身も霊自身も知らずになっている場合があります。しかし、取り憑く条件はあります。一つは霊性の歪みですね。

丹波
 例えばビルに例えれば、上の階に居る者が下の階の者に取り憑くことを憑依とは言わないね。高級霊の出現には憑依という言葉は使わないんだ。

小池
 霊媒現象的には同じなんですけれども。高級霊が霊界通信を送るときに、霊媒を使いますよね、ですから現象的には同じなんですが……。

丹波
 下の霊が上の者(霊・魂)にというのは、不可能なんだ。そうすると、一階の者は、一階にしか来られないんだ。即ち、波長の合っているものしか近寄ってこられないんだ。かなり上の霊は下に降りることは出来ますが、どんどん清流から泥沼に入るような苦しい思いをしないと来られないんだ。そうすると憑依現象というのは一階から三階程度の間でしか起こらないと思うんだが。ある程度高い者には憑依なんて起こらないんだ。

小池
 全然気にする必要はありません。

丹波 憑依の理由は単なるバカ。中毒患者には中毒の霊、泥棒は泥棒にと言うわけだ。憑依現象を恐れるのは自分が悪いんです。霊界事情を知っている者、研究している者は魂が相当上だから、低級霊は取り憑け無いんです。
 今は、霊的な知識から生み出される力が解りつつあるように移行しています。このままでは地球が駄目になると憂慮して、霊界からメッセージをばらまいているわけです。それを受けとめて伝えるのが我々の使命なんです。本日はありがとうございました。

                 《来月のお客さんは、岡安由美子さん・小池里予さん》