【第54回】 《2005年6−7月号》

   平成8年、テレビ東京で『丹波哲郎の不思議世界』が放送されました。
   この番組は、ゲストの不思議な体験を聞き、丹波哲郎が解説していく内容でした。
   番組の内容を日本文芸社から出版しました。
  『本当にあった霊体験・臨死体験17人の証言』というタイトルです。
   その17人の体験談を、本書より抜粋し御紹介していきます。

   以前も一部御紹介した内容もありますが、再度詳細に掲載していきます。
   対談形式ではありませんが、お許し下さい。


  
    霊治療のエネルギーの源泉は〃愛〃である

             〜西川峰子さんの体験〜

      
 おばさんの膝に手を当てたら
               悪いところが治ってしまった


丹波 なぜ、人間界に超能力者が生まれてくるのか。それは、その力を人の為に使う為である。霊界から与えられた能力を通じて人に尽くす。こうでなくてはならない。
 「超能力で人の為に尽くす」といえば、霊治療などはその典型だろう。これについては、西川峰子さんのケースを御紹介しよう。

西川 「数年前、あるお寺でお話をする仕事がありました。話が終わった後、娘さんたちに連れられて一人のおばさんが、一緒に写真を撮らせてほしいと言ってきたのです。
じゃあ、観音様の前で撮りましょうか、と私。私とおばさんは前に座り、娘さんたちは後ろに並んで立って撮ることになりました。
 娘さんの一人が二人分の座布団を用意してくれて、『おばあちゃん、ハイ、西川さんの横に座って撮りましょう』と言ったんで、おばあさんはチョコンとひざまずいて座ったわけです。私はこれが普通だと思っていたんですが、写真を取り終わった後、娘さんたちが『おばあちゃん、ひざまずけた!』って大騒ぎです。
 それで私は『エッ、ひざまずけなかったんですか?』と聞きました。すると、ここ何年か膝が悪くて、ひざまずけなかったと言うんです。
 娘さんに『西川さんって、何かおやりになってるんですか?』と聞かれました。『別に何か特別な事をやるってわけではないんですけど、幼い頃からこんなことに携わることは携わってきました』と返事をしました。
 みなさんからは『本当に感謝します。ありがとうございました』とお礼を言われました。私がやったことと言えば、おばあさんの膝に手を当てただけなのです。
 それから、別の話でこんなこともありました。
 知人の友達の赤ちゃんなんですけど、やっぱり足が悪くて全然立たなくなってしまったと言うのです。それで入院しているのだと。
 その話を知人から聞いて、病院に行くということなので、『手を出して』と。彼女の手の上に私の手を乗せました。そして、私は心の中で〃この人が病院に行ったときに、その子が立てるようになりますように〃とお願いしながら手をかざしたのです。
 彼女には『立てるかどうかわからないけれど、気持ちの問題だから、病院へ行ったら真っ先に赤ちゃんを抱っこしてね』と頼みました。実際彼女は抱っこしたそうです。そして、抱っこしてベッドに置いた瞬間、立てるようになったと言います」


丹波
 「人の為に尽くす」という場合、そこには必ず相手に対する「愛」の心が存在する。霊治療もそうだ。西川さんのエネルギーを最高のレベルにするのが「愛」なのである。そして手は、人間の体の中で、もっとも大きなエネルギーを出す部位なのだ。したがって、西川さんが誰かに手を当てたり、かざしたりするという行為は、そこから「愛を放出」していることにほかならないのである。



       誰にもある能力を超えた〃別の能力〃

             〜秋山眞人さんの体験〜

      
 UFOを見てから奇妙な現象が起こり始めた

丹波 秋山さんが自分の能力に目覚めたのは、15歳くらいのことだという。御存知の方も多いと思うが、そのころ、世間はユリ・ゲラーの超能力ブームに沸き立っていた。
 テレビに出演したユリ・ゲラーは、透視など様々な超能力を見せてくれたのだが、その中で大流行したのがスプーン曲げ。少年少女だけでなく大人も巻き込んで、曲がった、曲がらないと大変な騒ぎであった。


秋山 「当時、ボクは静岡県の藤枝に住んでいました。自宅の二階にいたとき、ソロバン玉のような形の大きなUFOを見たんです。UFOは、カーブを描くようにしてバッーと出てきまして、私はUFOからフラッシュライトのようなものを当てられました。そのときの私には、UFOという概念がなかった。何が起きたのかまったくわかりませんでした。
 ところが、その翌日から、奇妙なことが起こり始めた。たとえば、電機製品に触ると壊れてしまうとか。磁気製品や電気製品が次々と誤作動を起こすという現象が始まったのです。こういうのが超能力なんだと思いましたね。
 起きている状態と眠っている状態の中間あたりに自分を持っていくとします。そうすると、周りの人がみんな光の固まりに見えるんです。朝礼の時、校長先生が演壇に立ち、生徒がその前にズラッと並びますね。後ろから見ていると、みんながボーッと光の柱に見えてくる。
 しかし、どれもが同じ光ではありません。それぞれが微妙に色合いが違ったり、よく目を凝らすと、そのうちにポツポツと光の点みたいなものが、その中に見えてくるんです。そこに意識を合わせてグーッとズームアップすると、その点がおばあさんの顔になったり、家の中のようなものに見えたり、古いお墓のようなものが見えてきたり……。どうやらその人が関わっているいろいろな過去とか先祖とか前世とか、そういった情報なんじゃないかと。そんな状態になってきました。
 ところが、それで終わりじゃない。さらに敏感になってしまったのです。
 たとえば、コップ。
 一般の人にとってコップはただのコップ。そうとしか感じられないから、ふつうの生活ができるわけです。しかし、レンジをいっぱいにまで上げてコップを持つと、前に触った人の感覚が移ってくる。さらに深く追いかけていくと、コップがどういう過程で製造されたかとか、どうもこのコップを作った人は、なにか面白くないことがあって不機嫌なときに作っていたなぁというように、いろんなことがわかってきます。
 そのコップに関わった人の感情が、走馬燈のように入ってくる。うかうかすると、生年月日まで判ってしまう。
 とにかく果てしがない。レンジを上げていって、感性のチャンネルを強くすると、一つのコップから八つくらいの世界の情報が、過去未来を含めて入ってくる。これは、じつに煩わしかったですね。
 そのときボクは、初めて自閉症の人の気持ちがよく判りました。壁に向かってジーッと座って、壁にコンコンと頭を打ち付けているのが一番楽なんです。人というのは情報のかたまりですから、会うだけで煩わしい。満員電車なんか、大変です。10人が50人分くらいに感じられますからね。
 能力のスイッチを切る訓練をいろいろとやってみました。宗教巡りもやりました。あれこれとやったのですが、結局どれもうまくいかなかったんです

丹波 私は超能力者ではないが、そうした人を大勢知っているので、秋山眞人さんの気持ちはよく理解できる。しかし、秋山さんはそれを克服したからこそ、こうして私たちの前で話をしてもらえるわけである。
 では、秋山さんは、いったいどうやって「超能力の孤独」から抜け出すことができたのだろうか?

秋山 
「東京に出てきまして、神田の古本屋街へ行ったときのことです。
 棚の本を見ているうちに、ある本が目にとまりました。その本には、明治、大正、昭和にかけて、優秀な超能力者がたくさんいたということが書いてあったのです。それからですね、いろんな文献を読み始めたのは。そこには、彼らが自分の能力をどうやってコントロールしたのか、その片鱗が出ているわけです。それを一つひとつ、ボクの体で人体実験をしていきました。
 すると、あるとき、キレイにコントロールできるようになった。普通の生活をしようと思ったら、まったく見ない。この人のこういう面を見たいと思ったときには見る。要するに、能力者としての感性のスイッチを切る、入れるを自在にできるようになったのです」




              
超能力者の驚異的なパワー

丹波 秋山眞人さんほどの超能力者は、大変に貴重な存在である。
 超能力者がどれほどのパワーを持っているか。彼らの驚異的なパワーを詳細に記述した本が、1847年に出版されている。著者はデービス。「フォックス家事件」の一年前のことである。
 この本に、ダニエル・ダグラスホームという超能力者のことが記されている。ダグラスホームは、6階の窓から表に出て、8階まで上昇して窓から入ったという。生身の体を浮遊させたという驚くべき記録である。秋山さんはこれを「体を支配するほどの力」という言葉で表現した。
 こうした現象は、たとえそれを目撃した人でも、自分は夢を見ていると否定する場合がほとんどである。
 「夢を見ていた」ということでは、次のような記録もある。超能力者が、暖炉で真っ赤に燃えている石炭を両手でつかみ、ほかの人の掌に乗せる。通常であれば、大火傷を負ってしまうのだが、実際には何ともない。

秋山 
「能力者は、自分の描ききったイメージの世界に、周りの人をご招待することができるんです」

丹波 秋山さんが言う「描ききったイメージの世界」が、膜の役目をはたしているのだと私は考える。この膜ごと乗せるから、掌に真っ赤に燃えている石炭を乗せられても、火傷をしないどころか熱さえ感じないのである。
 もっと凄いケースもある。超能力者が、人体も焼くほどの勢いで燃えさかる暖炉の中に寝るのである。それでも髪の毛一本燃えることはない。、自分の体の回りに膜ができているからこんなことができるのである。 

                                           (つづく)