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【第51回】 《2005年3月号》 平成8年、テレビ東京で『丹波哲郎の不思議世界』が放送されました。 この番組は、ゲストの不思議な体験を聞き、丹波哲郎が解説していく内容でした。 番組の内容を日本文芸社から出版しました。 『本当にあった霊体験・臨死体験17人の証言』というタイトルです。 その17人の体験談を、本書より抜粋し御紹介していきます。 以前も一部御紹介した内容もありますが、再度詳細に掲載していきます。 対談形式ではありませんが、お許し下さい。 生島ヒロシさんの不思議体験 3 死を恐れるのは時代遅れ 丹波 私のように長年にわたって霊界を研究してきた者にとって、死は恐れるものでも忌み嫌うものでもなく、堂々と落ち着いて心静かに明るく待ち受けるものである。それを知って欲しくて、霊界がどういう処なのかを詳しく紹介しているのだ。 霊界、つまり死後の世界に対する認識が深まれば、死などはどうっていうことはなくなる。怖いどころか楽しい世界への旅立ちにほかならない。 霊界への旅立ちは、準備期間があるものとないものとがある。〃準備期間〃は、死に対する自覚が芽生えたときからスタートする。 生島 「たまたまある本を読んでいたら、亡くなった人たちの亡くなる前の一ヶ月の行動をみていると、たとえば、昔なつかしい友達に無性に会いたくなって、無理やりスケジュールをとって会っているということが書いてありました。 これは、死期が近づいていることを自覚しているということなのかどうか僕にはわかりませんが、クライマックスへ向かっての動きがあると……。丹波さんから、ある程度人生のシナリオはできているんだということを伺ってドキっとしまして、このことを思い出しました」 丹波 私達は、死期が間近に迫ってくると、潜在意識の中にそれに対する自覚が芽生えてくる。その自覚の一例が、生島さんの話である。 このほか典型的なケースとしては、普段は身の回りの整理整頓にほとんど無頓着な人が、急に部屋や持ち物の片づけを熱心にやり始めた、ということが挙げられます。 よく「虫の知らせ」と言うが、ではこの虫の知らせ、つまり死期が近づいてきていることに対する潜在意識は、何によって刺激されるのであろうか。 守護霊たちがそれを教えてくれる場合もある。だが、長年霊界の研究に打ち込んでいる私にすれば、自覚のタイミングがどんな形で示されるかなどということは、さして重要な問題ではない。 より大切なのは、必ず誰にもやってくる死と、それから訪れる死後の世界に対する認識が、どれだけきちんとできているかなのである。 すでに触れたように、私達が生まれ変わって霊界からこの世に現れた時点で、すでに一生のスケジュールはすべて決められている。だから、私達の一生に偶然はない。1〜10まで必然なのである。死もしかり。あらかじめ決められたとおり、一秒の狂いもなく訪れる。 この世の住人でいる間、ほとんどの人は自分のことを最優先に考えて生きる。これは、生命がこの世だけのものだと思い込んでいるからだ。生命をそのように狭くとらえるなら、当然、死は恐ろしいものになる。もちろん、死後の世界などは信じる余裕などは生まれない。よしんば信じていたとしても、せいぜい「死んだらいったい自分はどこへ行くのだろう? 天国だろうか? それとも地獄に墜ちてしまうのだろうか?」というぐらいのものであろう。 一方、霊界のことを研究し、死後の世界を十分に知っていたらどうだろう。 「生命は永遠である」。霊界を知るということは、このことを知ることとイコールである。永遠の生命が、修行をするためにこの世に生まれ変わってくる。修行がカルマの刈り取り、つまり、人のために尽くすことであるのは、あらためて言うまでもない。人の為に尽くすことが、永遠の生命を光り輝くものにする。それを理解し実際に行動すれば、死が恐ろしいものでないことは、誰にでもわかることである。 人の為に尽くす。これが、〃霊界銀行〃での大きな資産となり、その資産によって死後の世界が永遠の生命にとって実に素晴らしいワンダーランドになるのである。〃霊界銀行〃の資産を増やす努力をしなければ、たとえ人間界で地位や名誉や権力やお金など、浮き世の利得に恵まれていたとしても、霊界で厳しい境遇を余儀なくされるのである。 生島 「お話を聞いていて、死を怖がらず、明るく迎え入れる気持ちを持っていれば、現世も楽しく生きることができる、と思うようになりました」 丹波 おっしゃるとおり。 楽しい冒険の世界、きらびやかなワンダーランドへの誘い。これが死の本質である。 死者には、人間界より何千倍も素晴らしい楽しみが待っている。霊界通信などによって、霊界の研究が総合的に進み、あの世の実態が明らかになった現在、「死が恐ろしい」という感覚は、すでに時代遅れになっている。 ひそやかな死に共感するんですけど…… 生島 「以前、渥美清さんが亡くなられた。 代官山のお寿司屋さんで食べていた時、黒い服に黒い野球帽の中年の方が入ってこられた。一人で黙ってお寿司を食べて帰っていかれたんですが、その方が渥美さんだったんです。 普段は、できるだけ目立たないように、人に気付かれないように過ごしていらっしゃった。亡くなられたときも、一週間くらいしてから発表されましたよね。 この頃、著名な方の間にひそやかな死を選ぶ傾向が出てきたように思うんです。 ひそやかとはちょっと違うかもしれませんが、水の江滝子さんが生前葬をされた。お世話になった人や会っておきたい人を招いて、まだ元気なうちに会っておく。僕にとっては驚きでしたが、こういう形もいいなと思ったんです。 僕なんかテレビに出ていますけれど、普通に息を引き取りたい。マスコミがきたら嫌だな、と思っているわけです。最近ひそやかな死の選び方をみていると、何となく共感を覚えたりするんですけれど……」 霊界研究の本当の意味 丹波 「ひそやかな死」や「生前葬」に対する共感は良く判る。 この世にこだわりを持つことに、まだ漠然とではあるかもしれないが、疑問を抱きはじめているわけだ。それは正しいことだ。 人間界では、みんな名前を持っている。だが、私が死ねば、年を経るごとに忘れ去られていき、20年から30年くらいで私の名前を呼ぶ者は、誰もこの世にいなくなってしまうであろう。そうなれば、私自身ですら自分の名前を忘れてしまう。これで私は、生きていたときの自分と完全に訣別するのである。 人間界で名前は何のなにがしで、どんなことをやっていたなど、生きていたときのことは覚えていない方がよいのである。霊界の感覚からすれば、人間界はほんの一瞬のことにしかすぎない。この一瞬はたしかに大切ではあるが、それはあくまでも永遠の生命のほんの一部のことだ。従って、人間界での出来事を引きずっていたからといってどうなるものではない。 人間は、この世でよいことだけをやってきたわけではない。それもまとめて霊界に引きずっていけば、楽しさは半減してしまう。逆もまた真なりで、霊界から人間界に生まれ変わる時もそうだ。霊界でよからぬことをした場合、それをいちいち覚えていたのでは、人間界で修行がしづらくなる。 死を迎えたら、この世のことにこだわりを持たず、霊界という永遠の生命の中で楽しく暮らす生まれ変わって人間界に出てきたら、人に尽くすことだけを考える。これでよいのである。 私達は、永遠の生命の中にいる。人間界は、その永遠の生命の一部である。 霊界を宇宙の大学だとすれば、争いや欲望が渦巻く現在の人間界は、生命の何たるかをまったく知らない幼稚園クラスにすぎない。 しかし、霊界との交信、霊界の研究が広まっていけば、他人に対する愛や思いやりの気持ちもおのずと広がるひとになる。こうして、人に尽くそうという人間の輪が大きくなるにしたがって、人間界は、幼稚園から小学校、そして中学校、高校へと徐々にレベルを上げていく。 そして、やがては世の中に戦争などの愚かしい争いが一切なくなり、人間界にユートピアが出現することになるのである。 ユートピアの出現。私もあなたも、永遠の命を旅する中で、いつかその日に出会うことになるであろう。 (つづく) | |
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