池口恵観さん
 高野山伝燈大阿闍梨 )
   
 

 【第28回】 2002年12月掲載用
    (今回の対談はテレビ東京『丹波哲郎の不思議世界』より引用しています)


    今月は、僧侶の中でも最高 峰の位、高野山伝燈大阿闍梨でいらっしゃる
    鹿児島最福寺 の池口惠觀さんをお迎えしま した。
    軍人で言えば大将、政治家で言えば首相クラスのお 方です。
    さて、仏教では霊界をどのように考えているか、
    じっくりとお聞きしてみたいと思います。
    仏教界の中では、霊界の存在を認める少数派の池口さんですが、
    大変興味深いお話が聞けました。


           仏教と霊界研究の違い


   仏教界では、霊界の存在を否定する方々が大勢います。
   そんな中で、今回と次回の2回に渡ってご紹介する池口伝燈大阿闍梨は
  「霊界の存在を認めているから行をしているのです」と言い切っています。

   それだからこそ、毎日想像を絶する厳しい行を積んでいるのです。

丹波 私は『空海』という映画では、桓武天皇をやりました。だから『空海』には非常に詳しいんですが、三田光一という霊能者が『空海』の念写を撮りました。そのお顔と池口さんのお顔が実によく似ている。池口さんは、空海の生まれ変わりという可能性は実に高いと思うんですが、如何ですか。

池口 
いや、ハハハ……。

丹波 でも、実によく似ていますよ。生まれ変わりについて、仏教は、同じ魂が全部生まれ変わってくると説く。しかし、人間はそっくり生まれ変わってくるのではなく、部分的に生まれ変わる。これが我々霊界研究者の常識なんです。

池口 でも、人間は人間だけに生まれ変わるとは限らないんですよ。

丹波 いえ、人間は絶対に人間にしか生まれ変わらない。
 仏教では、牛や馬に生まれ変わると説いていますが、霊界研究と仏教は完璧にここで別れる。これだけは、どんなことがあっても譲れません。

池口 ハハハ……。



         護摩焚きの「行」で 幽体離脱


丹波 僧侶の中で霊界研究をしている方は、私の知る限り大分いますが、池口さんは相当深く研究されていますね。

池口 私の場合は、研究と言うよりも体験が中心なんです。私は、毎日護摩を焚いて厳しい「行(修行)」をしています。 「行」とは、まず十穀断ち(塩が五穀の役目、米、麦、栗、大豆、小豆の五穀で計十穀)というものをやります。次に火を使わない野菜や果物だけの木食行に入ります。それから断食するのです。すると体が浄化され、精神的にも六感が非常に研ぎ澄まされてきます。その上で、毎日九時間、護摩を焚きます。すぐ、目の前で火が三メートルくらい上がりますし、長時間のため、最初は気絶して倒れてしまいます。何回か繰り返していくうちに、丹波先生がよくおっしゃっている「幽体離脱」というものを体験するのです。
 そうなると、いろんなものが見えます。人の様子や体の中が見えます。見えると言うより自分がその中に入っていく感じですね。
 また、自分の後ろで座っている信者や弟子達が、足を組み直したり、あぐらをかいたり、正座したりしている姿が、はっきり見えてくるのです。

丹波
なるほど、肉体から幽体が行によって出てきたんですね。幽体だけになると、前後左右上下全て見えるという研究とピッタリ合致します。
 最近、そうした体験談が、次々研究とピッタリ合って来るんです。
 しかし、毎日、進んで火あぶりになっているようなものですね。
 相当な苦行ですよね。

池口
そうなんですね。

丹波
「火も又涼し」という感じなんでしょうか。



     500年の伝統ある 行者の家に生まれる

池口 そうなるまでには、かなり時間がかかりましたね。今はものすごい火を焚きますが、あまり熱さを感じませんね。
 私の家は、500年続いた行者の家です。母もまた行者でした。ですから、母のお腹に入っている時から私は「行」をしていました。生まれてからは、母にだっこされながら「行」をしてきました。母と一緒に、人の悩み事を聞いたりもしました。そして厳しい「行」をいつもやってきました。
 小学校3・4年生の時には、空一杯の大日如来を見たんです。その頃が一番研ぎ澄まされていました。たとえば、人の持っている物、サイフの中身がどのくらい入っているのか、他人の家の中の様子、牛の出産で雄雌どちらが生まれるかなどが分かりました。  しかし、中学校になると色気が出てきてしまったせいか、見えなくなってしまいましたね。

丹波 私なんて、小学生の頃から色気がありましたよ。ハハハ……。 でも、伝統ある行者の家に生まれるのは、霊界で決められた計画だったんでしょう。 「行」をするために生まれてきたんでしょうね。
                                            《つづく》