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丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」
〜第7回〜 死後の世界の様子 車と運転手��
《2001年3月掲載》
●無事故・無違反で人生を送る
肉体という車に乗っている運転手(魂)は、人生街道を走っているという譬えで説明を続けていきましょう。
霊界に行った運転手(魂) は、まず遭遇する「光」の質問に対して、何としても胸を張って答えるものがなければいけません。
一番に言えることは、「安全運転、即ち無事故」です。言ってみれば平凡な一生です。でも、この運転手(魂)
は幽界上層部へ落ち着けることになるでしょう。別名『常夏の国』とも呼ばれる素晴らしいところです。
中には、時間にゆとりがあった場合、他人に道を譲ってやった運転手(魂)
もいます。病人に手を貸した時もあれば、救急車代わりに人を助けた時もありました。この様な経験は、光の中で堂々と申告できます。
即ち、人生街道の出来事の中で、特に記憶に残っている数々の心あたたまる思い出は、本人にとってかけがえのない財産になっています。この運転手(魂)
たちは、常夏の国でも更に上層部へ昇って行くことでしょう。
逆に人をはねた、そして逃げた。しかし、そのままうまく逃亡し果たしたとしても駄目です。その事実は光の中ではっきり現れます。
光は、運転手(魂) が沈黙し続けようが嘘を吐こうが、まさに手に取るが如く判ります。人生街道で他人に迷惑を掛けた一つ一つがはっきり浮上してきます。大小を問いません。運転手(魂)
が忘れ去った事まで洗い出されます。本人は、それなりの責任を背負って光と反対の方向へ押し出されて行くことでしょう。
否も応もありません。ですから、運転手(魂)
は車を運転している間が勝負なんです。車(肉体)
に乗っている時、本人はそれが自分の全生涯だと思っていましたが、とんでもありません。車(肉体)
から降りた後が大問題なんです。
運転手(魂) は止まってしまった 車(肉体)
から出たくなくとも、否が応でも出なくてはなりません。ここに至っては遅いんです。ここでの修正はききません。修正は人生街道でしなければ遅いんです。運転手(魂)
の永遠の生は、何とほんの短い人生街道での彼の車(肉体)の走り方如何に掛かっていたんです。
運転手(魂) は、先ず車(肉体) から降りた後、霊界の大道が果てしなく続いている事実をしっかり認識していなければいけませんでした。運転手(魂)
は死後も生命が永遠に続いている事を知っておかねば正しい走り方は出来ません。
目的地は天国なんです。天国とは、上級霊が宇宙的調和という使命を果たすときの愛と喜びに満ちた雰囲気のことなんです。実は天国とは場所ではなかったんです。
さて、話は元に戻します。動かぬ車(肉体)
から出た運転手(魂) は今までの感覚とは、まるで違って何十倍も良く見え、聴こえる周囲の状況に呆然としていますが、彼が今立っている街道は人生街道ではなく、永遠なる霊界街道に立っているのだとは思ってもいません。

●人生街道をさまよう運転手
ここで運転手(魂) が車(肉体) を失っても、大勢の縁のある愛のある人々に囲まれ、賑やかに霊界街道を嬉々として歩いて行けるなら問題はありません。ところが、迎えに来ている人もなく、これから車(肉体)
も無しに何処へ行ったらいいのか途方にくれている運転手(魂)
は、人生街道へさまよい出て来ることになります。
でも車(肉体) を失った運転手(魂)の姿は、人生街道の人々には見えません。運転手(魂)
は人生街道を逆戻りしながら手当たり次第出会った人々に、此処は何処なのか聞いてまわりますが、手応えは全くありません。運転手(魂)
は、段々気がおかしくなってきます。彼は野良犬の如く理性を失い、助けを求めながらさまよい続けます。
この運転手(魂) が霊界街道へ向かう時は、大いなる悟りが必要です。大いなる悟りというよりは、大いなる愛という方が本当でしょう。愛とは神様のことです。神様とは秩序・調和の大雰囲気のことです。この雰囲気を運転手(魂)
が感じとれた時、運転手(魂) は、霊界街道を歩きはじめます。もう道を誤ることはありません。
●すばらしい霊界街道
さて、人生街道を「愛と奉仕」で走り抜けた運転手(魂)
は、霊界の大道に出た時、そこが余りにも輝かしいのに気も動転することでしょう。霊界街道が見渡す限りの花々の丘を通り抜けて、光の彼方に霞むのを眺め、彼も又、どうしたらいいのやら呆然としてしまうでしょう。しかし、彼の内側から自然に湧き出る喜びは、彼を取り巻く縁のある、そして愛のある人々に呼応して、運転手(魂)
が生まれてこの方、感じたこともない幸福感でワクワク・ウキウキしています。人生街道を走っていた時の心掛けひとつで、こんなにも違った状況になってしまいます。
人生街道と霊界街道は一本路です。唯、死という検問所があるだけです。この検問所には誰もいません。唯、車(肉体)
は通れないだけです。運転手(魂) は車(肉体)
ごと通れませんから、単身一人で降りて検問所を通ります。後は彼の好む道を行くことになります。霊界街道は色々と別れています。運転手(魂)
にとっては、唯車に乗ったまま通れないだけで、人生街道の延長線だと思っています。
ですから、彼の行きたい道を自然に選びます。霊界が何百何千の階層に別れているのは、極当然なんです。ですから、人生街道で出会い、愛し愛された縁ある人々との出会いは、霊界街道でも必ず会いますが、長持ちしない場合の方が多いようです。結局、愛よりも類は類で集まってしまいます。
●目的地は天国
人生街道での運転マナーが最終的の集団を造り上げることになります。人生街道でも暴走族は一人ではつまらないんです。大勢でなければ面白くないんです。人の迷惑など思ってもみません。そんな連中には安全に譲り合いしている運転手(魂)
など眼中にもありません。この時点で既に別々なんです。霊界街道は同じ道を全員が走るのではなく、類は類で完全に道を選びますから、何のトラブルもありません。それぞれお互いが満足し合って進んで行きます。ここまで来れば、人生街道の大切さは最早言うまでもありませんが、霊界街道の方がいかにも楽しそうで、面白そうで、ワクワクしてきますね。
目的地は天国なんです。富士山に登るのもエベレストに登るのも、色々と登り口がある筈です。霊界街道のいずれの道も天国を目指していることにはかわりませんが、道中が全く違います。その困難度、険しさ、道のりの長さ、様々です。
それもこれも全て人生街道に端を発しているんです。人生街道を走っている時から、天国を目的地として研究してきた運転手(魂)
と天国のあることなど思いもしなかった運転手(魂)
とはこの時点で勝負がついています。
天国とは、上級霊が宇宙的調和という使命を果たすときの愛と喜びに満ちた雰囲気を限りなく称えた所なんです。
●新しい車に乗り換える
さて、永遠なる霊界の大道というからには、易々と到着できるわけにはいきません。進んでは止まり、滞在しては研究し学び、奉仕に奉仕を重ねても前途遥かに展望されるだけ、もどかしい場合、類魂の仲間同志で相談したあげく、もう一度原点にかえって勉強しようと積極的に考えたとき、即ち運転手(魂)
は新しい未知の車(肉体) に乗り込む決心をします。
前には乗用車に乗っていたが、この次にはトラックに乗って人生街道を走ってみようと言い出したんです。それが彼の向上の為には、最短距離だと仲間も判断した場合、大勢で検討した末に決めた車(肉体)に乗り込みます。今度は前と全く違ったトラックです。何もかも違うことでしょう。唯車(肉体)
は車というだけでは同じですが、運転技術も知識も違うはずです。それが勉強になると確信して乗り込んで行くん です。大変です。命がけです。運転手(魂) は霊界街道と人生街道の検問所まで出掛けて行きます。そこで乗り込むトラックが組み立てられるのを辛抱強く待ちます。これが生まれ変わりですね。トラック工場(母親の子宮)
へ入ったり出たり眺めたり、段々トラックが組立ってくるに従い、運転手(魂)
自身の人生街道における運転予想も立ちました。
この時点で運転手(魂) は、いつどの様な事故に会うか、場合によってはその事故で運転手(魂)
は、トラックから放り出されることも予知しています。諸々の責任を背負うことも承知です。それもこれも運転手(魂)
にとっては修業だと確信しているんです。《つづく》
丹波哲郎
※先月から、車と運転手を例にとって、死後の世界を分かりやすく説明しております。来月は、憑依現象についてふれていきたいと思います。
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