丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

            〜第6回〜 死後の世界の様子 車と運転手
                   《2001年2月掲載》


 ●馬鹿は死んでも馬鹿

  「馬鹿は死なにゃあ治らない」と良く言われますが、これは嘘です。(肉体的障害は脳を含めて、肉体の消滅と共になくなりますが)
 馬鹿は死んでも馬鹿です。確実に馬鹿のままです。ところが皆さんは家族の死、友人の死、その他色々と死に出会っていますから、いずれ死は平等にやってくるんだとご承知なんですが、不思議な事には自分に関しては、その実感が無いんです。なんと自分だけは、永遠にこのまま生き続けて行くような気になっているんです。
 即ち自分にだけ、死は無いんです。ことに健康でいる時は、自分の死は感じられないんです。その間にも死の時は確実に一歩一歩前進し続けています。この死の行進曲が聞こえないだけなんです。実は何んとこれが真実なんです。本当なんです。
 死とは一時的な気絶に過ぎません。貴方の感じ方、思い込みは間違っていませんでした。

 ●身体=車 運転手=魂

 まず車に例えてみます。
 車全体が肉体です。エンジンが内蔵です。ハンドルが脳ですね。ガソリンは食物です。
 然しこれだけそろっていても車は動きません。運転手が必要なんです。運転手には良し悪しがあります。技術にも知識にも経験にも、マナーにもそれぞれに違いがあります。これが大切な個性です。大切を通り越して、これを磨き上げることこそ人生があるんです。我々の人生とはこの一点に掛かっているんです。
 肉体と云う車を運転し続けている間に、運転手が身につけた教養なんです。運転手も生理的な休息が必要ですね。
 ですから、車から下りて、食べ、飲み、トイレにも行きます。これが肉体にとっては睡眠です。睡眠は運転手、即ち魂にとっては大切な行事なんです。
 やがて車も次第に古くなってきました。事故などで破損もします。タイヤもいたんできました。そして、ついに動かなくなりました。いいんです。これでいいんです。車は(肉体)はお役目を果たしました。動かなくなった車の中で、運転手(魂)は静かな思いを楽しんでいます。車に乗って過ごした色々の経験を楽しんでいます。でも何時まで動かない車の中にいるわけにもいきません。
 運転手(貴方自身)は懐かしい車から外に出ました。その時、意外にも大勢の親戚、知人、友人、が手を振っているんです。運転手を出迎えているんです。運転手は誰から挨拶して良いのやら、驚きと喜びで、自分が今下りた動かぬ車など、もはや目にも入りません。
 当然でしょう。会いたい見たいと思っていた、愛で繋がり縁で出会った大勢の人々にどっと囲まれたら、運転手が永年乗っていた動かぬ車など、もはやどうでもいいんです。ちらっと目には入っても何の感動も湧きません。
 そして、運転手(魂)は、愛で輝く大群衆に導かれて、運転手に最もふさわしい処へ落ち着くことになります。その時の愛の大群衆 が100人の時もあれば50人の場合もあり、10人前後もありで 色々でしょう。それは運転手が人 生街道を通り抜けた時に出会った愛のある縁者の数なのです。
 ここではっきり申し上げる事は、運転手が如何に「明るく、すなおに、あたたかく」人生街道を走り抜けたかどうかに全てがかかっているんです。


 ●車と運転手は別物

 肉体から生命が消えた時「死んだ」と言います。「死んだ」状態は無責任な状態であり、死人の関係者達は唯見守るだけです。
 追悼の悲しみに茫然としているだけで、死人本人が今どうしていると言うよりは、死体と共に本人そのものも無くなったと思いこんでいます。
 ところが、信じられないことが死者の方に起こっているんです。死者(動かない車)の魂(運転手)は、死者と共に自分も当然消滅するものと思い込んでいました。魂にとって肉体即自分なんです。まさか肉体と自分(魂)とは全く別物だとは考えてもいませんでした。丁度、運転手と車とは、運命共同体だと錯覚している様なものです。
 運転手(魂)にとって車(肉体)そのものが自分の全部なんです。ですから車が動かなくなる過程は、悲しみ、おののきの連続で、子供が一番大切なオモチャを取られる時のように騒ぎます。
 ところが、車が動かなくなって、運転手は、はじめて自分と車は別物だと段々認識しはじめました。
 運転手は考え込んでしまいます。即ち死者は死体の中で、静かに考えているんです。そして信じられないことをやらかします。
 信じられない事というのは、変に静かになった死体の中から魂が出ようとしていることなんです。


 ●車から降りると光に出会う

 動かない車の中から運転手が外に出ようとしているんです。運転手(魂)は恐る恐るドアを開けてみました。死者の関係者たちは運転手がのこのこ死体から外に出てくるとは思ってもみません。この瞬間、運転手は、生々しい外気に圧倒されて、気も動転してしまいます。運転手は視覚も聴覚も数十倍敏感になっていることに気が付かないんです。
 車の中にいた時と外へ出た時のこの違いは信じられません。
 ですから、あまりにも五感が鋭くなっている運転手は、生まれてこのかた感じたこともない程の安堵感に包まれます。
 同時に洪水のような光に目がくらみ、死んだら暗闇の中に沈んで行くと勘違いしていたのが、馬鹿みたいで、唯々茫然としています。その間もあらばこそ、光が次々と質問してくるんです。運転手はきりきり舞いで応答します。
「人生街道を走り抜けて来た時、人のため、世のために奉仕したことは何か」と光が質問するんですから、情・容赦もありません。


 ●愛の方向性が問題

 さて、車に例えましたから、運転手でしたが、肉体の中の運転手(貴方)はどこに座っているのでしょうか。運転手(魂)が下りたら肉体は動きませんね。
 生命とは「物」を中から動かしている或るものなんです、生命とは運転手のことなんです。
 運転手は車(肉体)が好きだから動かしているんですね。そこには「愛」があるんです。即ち運転手を「愛」と名付けてもいいでしょう。深く、そして自由に、且つ、気楽に考えてみましょう。
 貴方の運転手、即ち魂が「愛」だとすれば「愛」には方向・対象物が必要です。
 その愛の対象物が貴方自身である場合(利己主義)又他人である場合(奉仕)、時には金、名誉である場合(欲)、色々です。
 魂は肉体に乗って魂(愛情)の方向を選びます。それが次第に個性になっていきます。
 運転手は山道をドライブするのが好きだった、或いは湖畔を走るのが好きだった、或いは高速道路が好きだった、色々でしょう。
 とにかく運転手(魂)の好みに合った場所が車を乗りすてた後に彼の定着する処なんですね、其処は天国かも知れません。地獄かも知れません。 
 全ては、人生街道を走っていた時の縁の出会いと「愛」の方向性如何にかかっているんです。

※今月から、しばらく間、車と運転手を例にとって、死後の世界を分かりやすく説明していきたいと思います。