丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第59回〜
《2006年5月〜》



        『週刊大衆』連載
                  平成16年11月8日からの連載記事から

          この連載は1冊の本にまとまり全国書店で販売中
 
    タイトル『オーラの運命(さだめ)』双葉社 税込本体1575円

    宇宙に訊け(そらにきけ) 其の十二

精霊界の最後の関門・エンマの鏡では
現世の善行・悪行すべてを見せられる。


  
  ★ 来世の宣伝マンが薔薇色の「死後」を説く


 最近、無性に見たいと思うものがあるんだよ。それはトンボだ。

 トンボといっても赤トンボやシオカラトンボのような、標準サイズのトンボじゃないぞ。もっと大きな、オニヤンマギンヤンマだよ。私が子供の頃には、夏になると、無数に飛んでいたものだよ。私の家の庭にも、たくさんいたな。

 自慢じゃないが、私が生まれた家はツツジに囲まれた大きな屋敷だったんだ。場所は現在の新宿区大久保のあたりだよ。もともと仮奉行所跡に建てられた家で、関東大震災のときには、周辺の住民が避難したという逸話まで残っている。

 要するに、私は「丹波家のお坊っちゃん」だったわけさ。近所の人から「横なで坊っちゃん」という、ありがたくない呼び名も頂戴したよ。というのも、鼻水がたれると、洋服の袖で鼻水を横にこすって拭くから、いつも補がピカピカだったんだ。

 丹波家では子供が生まれると、必ずお守り役の女牲がひとりついた。つまり兄弟全員に専門のお守りがつくから、兄弟同士があまり親密にならない。普通の家庭のような家族関係を知らないまま育つわけだよ。

 そんな私の遊び場は、いつも屋敷の中だった。兵隊ごっこだろうが、チャンバラごっこだろうが、屋敷の外へ出る必要がな〜い。それくらい庭が広〜い。何しろ、庭で野球が同時に2組できるぐらいだったんだ。

 そこで毎日のように、.近所の子供を集めては兵隊ごっこやチャンバラごっこをやつたもんだよ。お医者さんごっこをやったのも、この頃だ。

 母親も紙でつくられた鉄カブトや鉄砲類を、デパートで買ってきてはみんなに与えた。だから当然、何をやっても私が隊長というわけさ。

 しかし、当時の私の一番の友達はトンボだったんだ。屋敷の中にオニヤンマギンヤンマが、それこそウヨウヨいたんだ。それを見、それを追いかけるのが何よりの楽しみだった。そんな風景が妙に懐かしいよ。

 ところが、どうだ。最近は、東京でオニヤンマやギンヤンマを見るなんてことは、滅多にないだろう。見るのは赤トンボくらいだ。聞くところによれば、四国の四万十川のあたりには、オニヤンマやギンヤンマがたくさん生息しているというじゃないか。機会をつくって、ぜひトンボを見に行こうと思っているよ。

 さて、霊界の話に移ろうか。
 人間は死後、最初に訪れる精霊界で、自分が〃素〃になるための経験をする。〃素〃になるとは、心が素っ裸になるということだ。精霊界にあってはやりたい放題、したい放題が許される。生前は世間体や法律や規則で自分を規制していたとしても、すべてが自由になれば、素っ裸の自分が明らかになるというわけだよ。

 善は善、悪は悪。それが誰の目にもわかるほど、ごまかしようのない真の姿が現われてしまうんだ。こうして素っ裸になるためにかかる時間は人によって違う。早い人は2〜3日。長い人は30年かかることもある。


   ★ 忘れかけていた赤っ恥まで細大漏らさず記録

 そして、〃素〃になった者が最後に通る関門がエンマの鏡といわれるものだ。そう、あのエンマ様のエンマだよ。子供の頃、「ウソをつくとエンマ様に舌を抜かれる」と親に叱られた人もいるだろう。だが実際、エンマ様が存在するわけじゃない。エンマの鏡とは、自分の一生をおさらいするために見せられる映像なんだ。

 人は死の直前に、一瞬にして、過去から現在に至る自分の人生を振り返るといわれるが、エンマの鏡もそんなものだよ。つまり、産道を経て、産声をあげた瞬間から、成長し、老.いて死ぬまでの、誇らしい行為やら恥ずかしい行為やら、細大漏らさず見せられるんだ。記憶から、とうに消えていたことまで見せられるぞ。

 私が子供の頃にしたイタズラなんてものも映し出されるだろう。オニヤンマやギンヤンマと戯れた風景も見られるかもしれない。そう思うといまから、ちょっと楽しみではあるな。ただし、ここで勘違いしてほしくないのは、エンマの鏡に映し出されるのは、死者の脳細胞に記憶された映像ではないということだ。

 霊界が記録した映像のようなものだ。たとえば、その人が殺人を犯したとしようか。殺人を犯した人間の記憶にあるのは、相手の顔や、相手が死に至るあり様、あるいは自分が持っていた凶器など、いずれにしても自分の目から見た情景だよ。

 ところが、エンマの鏡には殺人を犯した自分の表情、その心の動きまでわかるような映像が映し出される。本人の主観で過去の記憶をたどったら、どうしても自分勝手な正当化が行なわれることになるからな。当然といえば当然のことだろう。

 ちなみに、エンマとは漢字で「閻魔」と書く。これはサンスクリット語のYAMAからきており、死者の神を意味するんだ。それが仏教に転じると、地獄の主として、死者が生前犯した罪を裁く者とされたわけだよ。

 まあ、実際にはエンマの鏡とは、死後、人間が現世で行なったことを正しく評価するために設けられたものだな。本人を表彰したり、処罰したりすることが目的ではない。〃素〃になった霊の厳密な種類分けに、どうしても欠かせないんだ。

 現世での人物評価は、どれだけ学問を追究したか、どれだけ富を得たか、どれだけ権力を握ったかなどでなされることが多い。だが、霊界では数字や記録では残っていないようなことが評価の対象になる。たとえば、どれだけ家族を大事にしたか、どれだけ人に親切にしたか、あるいはどれだけウソをついたか、どれだけ争いをしたか……そんなことだよ。

 エンマの鏡を見るうち、反省心が起きる人もいるだろう。逆に凶暴な性格が、.さらにエスカレートする人もいるだろう。心は、ますます素っ裸になるというわけだ。

 そして、このようなパノラマ化した人生を見終わると、精霊界は卒業だ。さあ、いよいよ大霊界へと旅立つんだよ。


                                       《次回につづく》