丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第44回〜
《2004年5〜6月号》




          あの世で幸せになる話〈3〉

                平成15年4月25日 『はかた南無の会』 講演会より


 
  ★ 学徒兵の第一期です


 僕は何の力もない。
 しかし、そんな僕は以前こんな事があった。
 日本文芸大賞特別賞をもらった『死はこんなに気楽なものか』という本は、一週聞で書き上げた。

 どういうことかというと、まずその本は、寝るときに書いた。
 僕の書く作業というのは大学ノートに鉛筆です。他のものは駄目、寝て書いているからインクが出てこない。暗い部屋で、見にくいから大きな字で走り書きします。大学ノートというのはこんなに大きいんだが、はみ出しちゃう場合がたくさんある。
 それでも、胸元でゴソゴソいい出すまで書きます。ゴソゴソいうというのは芯がなくなっちゃって、鉛筆の芯を出すため爪でむき出す。

 朝起きると、このあたり木屑だらけ
 お手伝いが非常に嫌がる。

 何と一週間で書いた。それを事務所に持ってくると、マネージャーをはじめとして何人かの者が、寄ってたかって読む。分からないと僕に聞くわけです。僕も想像ですから、半分分からない。でも一週間で書き上げちゃう。それがあの本。

 だからあの本は、霊界事情を実によく物語っていると思います。
 そういうわけで、霊界研究にあたっては、死に物狂いはオーバーだけれども、本当に勉強した。

 あれほど受験勉強したのならば、僕はどんな大学にも試験合格したと思う。僕は丹波の家では一番の劣等生です。だいぶこれ有名になっているらしいね。余計のお世話だよな。

 僕の祖父は当時、帝国大学に行った8人のうちの一人です。これは願書を出せば入れてくれたらしい。龍角散の曾おじいさんと僕の祖父が同級生です。薬学部一期生。そのまま帝国大学東大に残って、教授になり、名誉教授になって、作ったのが東京薬学専門学校、通称、東京薬專です。それが八王子へ移って、東京薬科大学になる。だから、わりかた優秀だと思うんだな。

 その子供は一番上が直太郎、次が僕の父親で次郎三郎が子どもで死んで、四郎、五郎、六郎は全部東大だな。

 僕の兄、一番上は12歳違う。学習院から行っているからあれは無試験だ。当時、東大の文科は無試験。次は京大にやっとこさっとこ入った。僕よりちょっと優秀。

 僕がとにかく一番駄目。私の三つ上の兄貴は府立高校から東大。というわけで試験という試験には、僕は全然向かない。

 皆さんの中に、中央大学出身者はいますか。(会場内には誰もいなかった)
 よかった、いなくて。

 私は、入れてもらったんだ。総長が林頼三郎、親戚なんだな。これは他の人に言うのはよしなさいね、みっともないからね。とにかく入れてもらったんだ。

 中央大学に入って何がよかったか。俺は法科で、英契約法なんだ。何ひとつ覚えていない。
 僕は学徒兵の第1期です。陸軍の「キ64試作戦闘機」に、20ミリ機関砲4門を翼内に2門づつ、胴体に2門つけてやるのが役目で、実際に戦争はしていないからこうやって生きているわけです。今日生きているのも劣等兵だったからだと思うな。
 
常に僕の場合、そういう試験では合格しない。
 霊界の研究者としたら、僕は今や、自分でいうんだから当てにならないけど、「日本一」だと思う。非常に名誉だと思う。
 威張ってここでお話できるのは、そういうような自信があるからです。

                                       《次回につづく》