丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第38回〜
《2003年10月号 掲載》


 
             死の恐怖からの解脱〈第12回〉

    
  ☆死の恐怖よ、さようなら

 人間が、この世に持つ様々な未練の一つとして、お墓というものの存在がある。
 なぜ人間が墓にこだわるのかといえば「死後の家」という発想からだ。しかし、心配することはない。魂は地の下へ行くのではなく、上へ上へと昇っていく。どのような病気、事故で死のうとも、皆さんの魂は子供のように跳びはねながら、空へ帰っていくのである。

 広い視点からみれば、妻や子供、家、金、そうした全てのものは影にすぎない。自分の肉体でさえ、例外ではない。「自分のもの」は、魂だけなのである。子供であろうと大人であろうと、霊界に赴くにあたっての最高の土産は、何をおいても素直な心根だけ、それしかない。

 だから墓などは、無用の長物といっても過言ではない。焼いた灰は、そのまま焼き場に捨ててくるのが一番いい。持って帰らずに、焼いたら焼きっぱなしにして、何もかも灰として捨ててしまうということが、いちぱん賢明なのだ。

 しかし、家族にとって故人の思い出として、命日に一家そろってお墓参りをし、故人をしのぶということは、大切な良習といえる。

 戒名や位牌というものも、死者にとって、そんなものはどうでもいいものである。人間が「あの世」へ行ったなら、そのような看板や名誉は、いっさい不必要になるということなのだ。あれこれ気をつかうことはないのである。

 肉体は死んでも霊魂は生きつづける、このように考えるようになってから、私の人生観は、すっかり変ってしまった。死に対する不安や恐怖も消え、ゆとりある生き方ができるようになった。生命が永遠なら、この人生、あくせくすることはない。欲望の充足のために汲々とする必要もない。胸のつかえがとれたように、すっきりした気分で、快適に毎日を送っている。

 そうなれば、死は恐怖の対象ではなく、むしろ「喜々としてお迎えを受ける」ようにさえなる。私の友人のように、死を恐れ、悩みながら死ぬことはなくなるのだ。死後の世界があると知れば、自らの死を平静に受容(大往生)もできるだろう。死という、人生の終末に訪れる最大の不安を取り除けば、人間の一生のほとんどの悩みは解消できるはずなのだ。

 現世が終っても、私たちの霊は生き続けるのである。となれぱ、「人間がいかに死ぬべきか」「人間いかに生きるべきか」は最大課題であろう。死に立って生を考えることこそが、あなたの人生を充実させてくれるのである。

 私が確信した「生命の永遠」さは、人ぴとが死の恐怖におののく必要がないほど素晴らしいものなのである。死の恐怖を払い捨て、明るい希望を抱きながら現世を生きていくことは、周囲の人びとに多大な影響を与えることにもなる。

 なぜ死が、そんなに怖いのか。それは、知らないからだ。死んだ後、どうなるのかが、さっぱりわからないからだ。

 私は宗教家ではないが、「死とは何か」、という問題を追求した結果は、宗教の死生観にきわめて近いものであった。私が、あの世が実在すると確信した根拠を、古今東西の知識を集め、多くの実例を紹介して記してきたわけだが、それでも「見たこともないのに、霊界の実在を信じろといっても、それは無理な話だ」と思われる人も多いだろう。それならば、近似死体験者の本を読めぱよい。

 重要なのは、こういった近似死体験によると、どの本を読んでも、霊界がとても素敵な場所だということが説明されている点である。だから私も、死後あなたの霊魂が肉体を脱ぎ捨て、帰っていくべき故郷、すなわち「霊界」の素晴らしさを繰り返し、何度でも訴え続けていこうと思っている。

 しかしながら、どれだけ記録を山と積んでも、また霊魂を認めざるを得ない体験をしても、心の目が開かれないと、霊界の存在を確信することはできないものである。また、そういうことを納得していただいても、真理を悟れるとはかぎらない。では、人はどう生きれぱよいのだろうか。

                                           (つづく)

   ※次回でこのシリーズは、最終回となります。
    「大宇宙の法則」と題して、総まとめをして締めくくっています。