丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第37回〜
《2003年9月号 掲載》


 
               死の恐怖からの解脱〈11〉

    
  ☆『往生要集』の地獄

 子供の頃、悪戯をしたり嘘をついたりすると、「地獄に堕とされるぞ」「閻魔さまに舌を抜かれるぞ」と言おれて、親に叱られた記憶をもっている人は多いはずだ。これら日本人が抱いている地獄のイメージは『往生要集』(おうじょうようしゅう)を原典にしているといわれる。

 平安時代のベストセラーである『往生要集』は、天台宗の僧侶であった恵信僧都源信(えしんそうずげんしん)が書き記したもので、「極楽に往生するために重要な教えを集めたもの」という題のように、さまざまな経典を引用している。後世の〃血の池〃や〃針の山〃など、地獄絵図のイメージは、まさに『往生要集』の影響によるものなのだ。

 ところで、昭和50年頃からブームとなった「ぽっくり信仰」、おそらくは有吉佐和子さん『恍惚の人』がベストセラーになってからの流行と思われるが、その先祖とも言える奈良の阿日寺(あにじ)と吉田寺(きちでんじ)は、いずれも源信ゆかりのお寺なのである。

 源信の母が臨終のとき、浄衣に着がえさせ、いっしょに念仏を唱え、安らかな死を看取ったことが、下の世話をかけたくない、人に迷惑をかけたくないという「ぽっくり信仰」の縁起になっている。この考えの底には、安楽な死、そして理屈ではどうしようもない、来世(浄土)への憧れがあることは聞違いないだろう。

 その源信が、三条大后の宮から賜った施物を届けさせたところ、母が「名僧よと、世間にもてはやされるために法師にしたのではない。人々を救う聖(ひじり)になってもらいたい」と、息子の慢心を戒めた話は有名で、『今昔物語』に残っている。
『往生要集』全10章は、その母の一周忌に著されたものである。同著の末尾で彼は「我もし道を得ば、願はくは彼を引摂(いんじょう)せん。彼もし道を得ば、願はくは我を引摂せよ」と語っている。つまり「いっしょに極楽に往生しよう」と言っているのである。もちろん、より良く生きることが、安楽な往生につながることは言うまでもない。

 『往生要集』の第一章によると、それぞれ性格を異にした地獄の様相は、炎の海につつまれている。


 黒縄(こくじょう)地獄

 黒縄とは、熱く焼けただれた鎖のことで、盗みを働いた者が、灼熱の鉄の上に寝かされ、焼けた鎖で体中を滅多打ちにされる。辺りには肉の焦げる匂いが充満する。丸焼きになるだけではなく、真赤に焼けた鉄の斧や鋸で、徴塵になるまで切り刻まれてしまうのだ。


 衆合地獄

 欲情のおもむくまま、ふしだらな性関係を結んだ者は、刀の形をした葉が繁る林のなかに追いたてられる。樹を見上げると、肌も露わな美しい女性が手招きしている。樹をよじのぽるが、刀の葉が肌を切り裂く。ところが、樹の頂上につくと、いつのまにか女性は樹の根元で手招きをしている。樹木を登り降りしているうちに、体中がささくれ、全身の血が流れ出してしまう。この衆合地獄のそぱには、男色に溺れたり、他人の妻と不倫をした者が堕ちる、特別な地獄もある。


 大叫喚(だいきょうかん)地獄

 舌を抜く閻魔大王がいるところだ。嘘言で他人を惑わせた者は、焼けたカナテコで舌を抜かれる。抜かれると、また舌がはえてくるので、際限のない責め苦が繰り返される。


 阿鼻(あび)地獄

 別名を「無間(むけん)地獄」とも呼ばれ、奈落に位置する。地獄のなかでも最悪の場所である。屍体が累々と積み重なり、悪臭に満ちみちている。それらの屍体には、無数の蛆虫が這いまわり、目といわず口といわず、体のあらゆる穴に入り込む。

 この『往生要集』で説かれている熱地獄の様相は、おそらく源信一人の想像の産物ではあるまい。仏教の長い歴史のなかで、あらゆる経典から集大成されたものであろう。いや、それだげにとどまらず、高僧たちが幽体離脱し、実際に地獄を訪れて見た光景も加えられているはずだ。なぜなら、とても絵空事とは思えぬほどのリアリティ、迫真力を感じさせるからである(もちろん、この地獄思想のバックポーンには、自業自得の考え方がある)。



  ☆守護霊の導き

 守護霊の存在を説いたのは、大本教の幹部で、後(1929年)に東京心霊科学協会を設立した浅野和三郎氏のようだが、最近よく店頭で『守護霊○○』という題名の本を見掛けるように(そういう私も、廣済堂出版から『守護霊問答』、日本文芸社から『守護霊と霊界の謎』という本を出している)、大本教より以降の新宗教の多くは、守護霊や守護神の存在を認めている。どんな時にも傍にいて、その人を善い方向へと導いてくださる方々であると説いていた。

 各人の背後には必ず、その人に個有の守護霊(ガーディアン・スピリット)がいる。
生命=魂が入りこんだ瞬間、私の解釈では「受胎した瞬間」から、ずっとあなたをガードしている。
 守護霊とは、霊界における仕事の一つとして、その人間の誕生から死の時まで行往坐臥、一挙手一投足をつねに見守ってくれている霊である。信頼すべき霊能者たちの報告によると、守護霊は圧倒的に「先祖の霊」が多いという。

 しかし、今日の私の研究では、なんと自分自身が守護霊なんですね。これには類魂ということが理解できないと、チンプンカンプンです。
 類魂が守護霊になっています。ここでは、類魂については割愛します。

 さて、先祖の話が出たので、ここで私の先祖についてちょっと触れておきましょう。

 わが家に残る「丹波氏系譜」の最初には「後漢12代霊帝」とある。その霊帝の子孫である坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、征夷大将軍となって功績を残し、武力をもって重用されたが、この系譜からは康頼(912〜95)という医学士も出て「丹波宿禰」の姓を朝廷から賜っている。そして康頼以降、江戸時代まで丹波家に生まれた男子は247名、そのうち163名もが医師なのだ。祖父の敬三も後に東京薬学専門学校(今の東京薬科大学)を創立している。そして私は、霊界大学(来世研究会)の創立者というわけだ。

 自分の人生を顧みて私は、恵まれた家庭環境のなかで育てられ、好きなように遊ぱせてもらったが、子供の頃は、自分の名前すら満足に言えないほどの「どもり」であった。鼻水がたれると、洋服の袖でこするので「横なで坊ちゃん」と呼ぱれたこともある。しかも、旧友たちが口をそろえて「こんな憎たらしい奴はいない」とか「やんちゃ坊主」と主張する、札付きの悪ガキだったのである。小学校へも時間どおりに登校したことがないという、遅刻の常習犯でもあった。

 仙台の二高(今の東北大学)を二度も受験したが、落っこちた。勉強もせず遊んでぱかりいたわけだから、当然といえば当然だ。しかも、受験の動機が「女の子にもてたい」というものだったから、受かるわけがない。しぶしぶ私立へ通うことになった。

 大学も二浪した。そこで、親戚が総長を務める中央大学へ無試験で編入となった。そんなとき、学徒出陣が始まった。

 軍隊に入っても成績が悪すぎて、立川の航空隊に移された。そこは、軍隊における落ちこぼれ集団という感じであった。私は、そこのなかでも怠け者で、落第した。「役にも立たない人間だから」というので「目立たぬように起居せよ」、つまり何もしなくていいという命令が出て、食べては寝そぺるという結構な身分であった。

 ところが、そんな劣等生にも仕事がきた。炊事である。その結果、物資のない厳しい戦争中に、たらふく食べ、ごろごろしているという生活ができ、すっかり太って終戦を迎えたものだ。しかし、立川の仲間で優秀な兵は、フィリピンやマニラで、飢えと渇きに苦しみながらの戦闘を強いられ、ほとんどが戦死してしまったのだ。

 戦後も、サラリーマンになったが失業し、ある人に「朝寝坊をしていて勤まる仕事はないものかね」と言ったら、「そりゃ俳優ぐらいだろう」という返事だった。「確かに、そうだろう」と思った私は、ある俳優学校に願書を出すことになったのである。

 そんな私の前世は、あまりほめられた存在ではなかったと推測される。しかしである。私は俳擾として確たる地位を築き、数多くの人々を楽しませ、生きてくることかできた。それは、わたしの使命がおおきく関係しているのだろう。私の人生を振りかえっただけでも、霊界からの恩恵は、はかりしれないものがある。今から振りかえってみて「あれは、まさに霊界からの導きだ」と思われることが、いくつもあった。

 私の使命、それは「霊界の宣伝使」だ。

 私の人生は、すべてその使命が達成しやすいよう、霊界から環境を整えていただいたのだろう。
 あなたにも必ず「使命」がある。その使命に気付くか否かが、あなたの人生を大きく左右することだろう


                                          (つづく)