丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第36回〜
《2003年8月号 掲載》


 
               死の恐怖からの解脱〈10〉

    
  ☆自殺者の近似死体験

 必ず訪れる死、いつ与えられるか解らない死の瞬間……言い換えれば、人の生きる究極の目的は「死」につきるとも言えよう。

 大往生というのは、自分でも知らないうちに、それと気がつかないうちに死んでいるという、まことに素晴らしい死に方である。まるで昼寝でもするかのように心地よい「まどろみ」のなかで、なんの苦しみもなく死んでいく……。しかしながら、安らかに大往生していくという例は、きわめて稀であろう。たいていは、七転八倒の肉体的苦痛と、死ぬことへの恐怖から精神的錯乱をともなったりするものなのだ。

 体を悪くして、長いこと寝たきりになっていると、考えなくてもいいことまで、あれこれ思い煩うようになるものだ。そうなると、妻や子のことも気がかりになり、大往生どころか「成仏」もできないようなことになる。


 死を迎えたとき肉体は、その生命活動を停止する。呼吸と心拍が止まり、脳波が消え、各種の反応が消失した肉体は、いわば肉塊となり荼毘(だび)にふされる。かつては、遺体は自然の法則にのっとり、土にかえって微生物によって分解され、生物連鎖のなかに組み込まれていた。しかし現在の文明国では、そのような肉体の還元は、まず行なわれない。

 輪廻とは、サンスクリット語の「サンサーラ」を翻訳したもので、「生あるものが、生と死を繰り返していくこと」を意味している。輪廻という思想はギリシャ哲学でも主張し、インドのウパニシャッド哲学でも、さまざまな説が述べられているそうだ。

 いずれも、前生の善悪の行為によって、次なる世代は天国もしくは地獄などの世界に生まれ、業(行為)と報(結果)との因果関係が続く限り、輸廻もまた繰り返されるとされる。その鎖を断ち切ることができれば、涅槃の世界に到達できるのだという。

「おやじ、涅槃で待っている」、そう言い残して新宿のホテルから投身自殺した俳優仲間がいた。甘いマスクの二枚目だった彼とはよく共演もした。私自身は、肉体は死んでも霊魂は死ぬことはないという考え方をしているので、そう大げさに悲しんだりするということはない。ただし、自殺はいけない。

 涅槃とは仏教の言葉で、苦しみ悩みの一切なくなった世界のこと。一般に言う「極楽」のことである。私なりに解釈すれぱ、涅槃とは霊界の「村」へ帰ることに等しい。その村こそ、仏教の『阿弥陀経』に説く西方十万億土であり、その村の住人たちこそ、あなたの真の家族なのである。

 さて、「死んでも霊魂があり、あの世には山もあり川もある」そう言うと、うっかりすると「だから死は恐ろしくないんだ」と思って自殺してしまう人がいるかもしれない。だが、はたして自殺によって「涅槃」に行けるものだろうか。

 今が苦しいから自殺する、この肉体がなくなれば苦しみから逃れられる、楽な世界に行ける、そうあってほしい! 気持はわかる。しかし、修行の場である人間界から、自分の身勝手で許しも得ずに逃げ出すのだから、霊界へ行っても良い待遇を受けるはずがない。そして、また同じ「業」を背負ったまま輸廻のなかに戻ってゆくことになる。自殺なんかしては、絶対・にダメ! 

 自殺者の近似死体験の例も発表されているので、ここにその事実をご紹介しておこう。自殺者の場合は、一般の例や、『死者の書』に見られるパターンとは、まったく違う死を迎えている。

1975年4月のアメリカ、インディア州ゲーリーにおける22歳の女性の例である。
 恋人エリックの別れの手紙を読んで、自動車もろとも崖から飛び降り自殺をした彼女が、次に経験したことは、真暗な地下道のようなところにいる自分であった。そして、冷たい手や蛇のようなものが体に感じる。着いた先は、もがくような死人が大勢いるところで、父や母の悲しむ顔が深い穴の底に見えた、という体験である。

 自ら死を選んだ人たちの近似死体験は、それぞれ同じような恐怖のケースが多いのだ。たとえぱ、『かいまみた死後の世界』(評論社)の著者ムーディJr.博士によると、自殺未遂者の臨死体験は、死に近い状態が数時間なのに、本人には何週間あるいは何年間にも相当する長さに感じられ、一人ぼっちで闇の中にいるような、どうしようもなく淋しい気持になるという。

 そして、『死の扉の彼方』(第三文明社)の著者ローリングス博士の報告によると、「これは地獄だ」と思わざるを得ない体験をした人びとは蘇生後は、まるで人が変ったように、真に人間らしく生きるようになるそうだ。


 つい最近では、借金地獄から逃れるために心中したり、自殺したりする例が非常に多い。今でも愛情のもつれや、金銭関係などのしがらみから逃れるため、人間界に終止符をうつ者は少なくない。なぜ人間は、かくも愚かしい妄想にとりつかれ、自らを更なる苦しみの世界に陥れようとするのだろう。

 自殺は、その人の宿命ではなく、当人の意志によるものだ。この世では、にっちもさっちもいかないから、あの世へ早く行こうとする行為である。この世で生きることの真意が、わかっていない。これでは、神様が喜ばれるはずがない。したがって自殺した者は、あの世で「こんなはずではなかった……」と、期待はずれの状態になる。


「人生なんて、むなしいものさ」、人はよくこんな台詞をつぶやく。
「死んだら、すべてが無」という考え方は、己れの人生を無価値なものにおとしめ、ひいては己れ自身をも冒涜する愚者の思想にほかならない。そして、己れの抱えている悩みや苦しみを放棄して、自堕落で意欲のない生き方に走ろうとする。否、死んでからも、「死んだらそれまで」と考えていると、まだ考えたり見たりすることができるので、「まだ生きている」と錯覚し、死を自覚できないで、そのまま地縛霊浮遊霊という低級霊になってしまうのである。

 また、この世で何をしても、地獄に堕ちることもなければ、苦しみを味わうこともないとすれば、「自分さえよけれぱ、他人など、どうでもよい」という考え方が蔓延することになる。こうした考えが戦争にもなり、人類を滅亡に追いこんでしまうかもしれないのである。

 日本には「旅の恥はかき捨て」という、名誉でない迷信がある。「旅」を「人生」に置き換えてみると、どうだろう。 「人生の恥はかき捨て」となる。死んだら無になるのだったら、どんなことをしてもかまわないではないか。どうせ一度の人生だ。死んでしまえばそれまでだ──と開き直れば、何でもできる。なにしろ「人生の恥はかき捨て」なのだから。

 だが、そうではない。でたらめな生き方をして、この世でヌクヌクとしていても、悪業の報いは必ずある。この世界は、きちんと収支計算が合うように「因果応報の大原則」を軸に動いているのだ。

 たとえ現世で報われることはなくても、精一杯に生きることが、貴方がたの来世をつくっていくのである。自己への真摯な反省や、人に対して向けられた善意の行為は、きちんと未来の貯金通帳に繰り入れられるのだ。いかなる努力も、けっして無駄になることはない。

 たしかに人間界は、いろいろな苦しみや悩みを、これでもかこれでもかと経験しなくてはならない場所である。「神も仏もあるものか」と、追いつめられたりすることもあるだろう。いくたびか絶望を感じて、楽になるために自ら死を選びとろうと考えることもあるかもしれない。生きていくことは、容易なことではない。

 でも、この世の淋しき、悲しさ、辛さ、痛みは、神が用意してくれた修行の材料なのだ。我々には、魂が向上できるよう、いろいろな課題(困難)が与えられる。その苦しさを乗り越えてこそ、生まれてきた意味があるのだ。悲しみという毒を、修行という薬に変えてしまうこと。それができたとき、人生は暗から明へと方向転換していくことだろう。

 はたしてみなさんは、どのような課題を与えられて転生してきているのだろうか。

 あなたは、恵まれた家庭環境に生まれ育ち、志望通りの学校に進み、十分に満足できる収入を今、得ているだろうか。もし、これまで何の苦もなく、嫌な思いや悔しい思いをしないで人生を過ごしてきた人があるなら、それはもう悟って生まれてきた人としか考えられない。悲しいから、辛いから、修行になるのだ。

 現世でこなすべき課題を与えられた我々は、何百年に一度、いや人によっては何千年に一度の、この修行のチャンスを無駄にしてはならない。

 上手に生きるため、そして死ぬための鍵は、やはり「人間、死んだらどうなるのか」を解明することだと思われる。ひとたび死後の世界の実在を信じれぱ、己れの抱えている悩みや苦しみの正体が見えてくる。自分が望んだことができなくても、それも修行のひとつだと、運命を嘆くこともないし、誰を恨むこともない。そして、何のために人間がこの世で生き、あるいは生かされているかを真に理解できるようになる。



  ☆地獄の様相

 死とは何か、死んだ後はどうなっていくのか……を知ることは、とてつもなく意義のあることだ。

 私は、明けても暮れても「死」と「死後の世界」について、研究した。東西の霊界についての著述、天国・地獄に関すること、そして近似死についての医学的文献などを読み進むにつれ、その研究の過程でぶつかったのは、「この世」と「あの世」との因果関係であった。人が地獄に堕ちるというのは、どういうことなのか。極楽に行くとは、どういうことなのか。いわゆる「閻魔の裁き」というのがあるかどうか、という疑問である。

 しかし、仏典にもしぱしぱ説かれているように「因果応報」、地獄とは本人の心のなせる業(わざ)であり、その結果であるという、このことは肝に銘じておくべきだろう。

 大科学者であるスウェーデンボルグは、善霊は同じ種の善霊の住んでいる霊界へ行きたがり、悪霊も同じような仲間の住んでいる地獄界へ行きたがるという。彼の霊界についての詳細な記述は、彼自身が「霊界に入って見聞し、あるいは霊たちと交わって知った知識を基にしている」と公言しているだけあって、圧倒的な迫力で読む者の心に突きささってくる。

 結論から言えば、人間は死後、自分自身の「この世」の所業の品格によって、自らの道を決定するということがわかったのである。すなわち閻魔=裁判官は、自分自身の心の中にいると言えるのだ。

 となると、この世で、自分の欲望を果たそうとする快楽主義・利己主義は、じつは無意味なことになる。いや、無意味どころか、悪魔のささやきにもなりうる。この世の所業については、すべて自分の責任において、あの世で謝罪をせねぱならないからである。

 ところで、仏教の地獄思想の根本には「自業自得」の考えがある。私たちも日常、この言葉をよく使っている。「罪の報い」とは、けっして時代遅れの考え方ではなく、これは霊界における永遠の規範なのである。しかも「身・口・意の三業」という考え方をすれば、心のなかで思ったことも罪となり、地獄に堕ちる原因になる。となると、両眼をえぐられたり、全身を虫に食い荒されるという地獄での刑罰も、けっして他人事ではなくなる。そのように認識したとき、はじめて『往生要集』などで描かれる「地獄」の恐ろしさが身に迫ってくるのではないだろうか。

 自分さえよければ人はどうでもいいという主義で生活してきた者は、あの世に行ってからは、それなりの待遇しか受けられない。はっきり言えば、地獄へ行くのである。いったい、悪因の積み重ねの報いとして、自ら選んで堕ちていく地獄とは、どのような所なのだろうか。


 地獄界は特殊な霊界で、他(浮霊界や天界層など)とは大いに様相を異にする。思い浮かぶイメージは地獄絵図のようなもの、つまり〃針の山〃とか〃血の池〃だろう。私はずっと、そういうものはナンセンスだと思っていたのだが、霊界を研究するにつれて、どうやら見方によっては類似したものがあるという気がしてくるようになった。

 西欧における地獄の概念の代表例は、ダンテが『神曲、地獄篇』のなかで記述したものと言われている。ダンテ14世紀の人物だが、その書の文学的価値は高く、かのゲーテは「人類の創った詩歌のなかで最高のものだ」とまで称賛している。

『神曲』によると、地獄は第一獄から第九獄まであり、人の犯した罪によって堕ちる地獄が定まるという。

 その第二獄は、性欲に負けて淫乱な生活に明け暮れた者が堕ちるところで、古くはクレオパトラ、カサノバ、ドン・ジョバンニなどの姿が見られる。第三獄は、人びとが飢えに苦しんでいるときに美食、飽食を楽しんだ者が堕ちる。ローマの貴族たちの姿が見られる。また第八獄は、詐欺を働いた者や、妖術使い、汚職をした官吏などが堕ちる地獄である。

 もっとも、彼の描いた地獄は、彼の知るヨーロッパの世界に酷似している。そこには、ギリシャ神話に出てくる怪獣、鳥の姿をした魔王ベルゼブルをはじめ、地獄の河の渡守カロン、半人半獣のケンタウロスなども出現する。このことから現代人は作り物じみているように考えるかもしれないが、おそらくダンテは当時の西欧人にとって馴染みのあるイメージを借りたのだろう。そこに登場する歴史上の人物も、誰もがその所業を知っている有名人によって、地獄を理解しやすいように配慮したものと思われる。

 しかし私は、この『地獄篇』を文学としてよりは、むしろその時代の「無名のスウェーデンボルグたち」が見た地獄を代弁したレポートとして読んでいる。それは、まったく文化も世界観も異にする日本人の「地獄の思想」の原典ともいえる『往生要集』の描くところと、とてもよく似ているからである。

 では、『往生要集』の地獄像とは、どんなものであるのか?

                                          (つづく)