丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第35回〜
《2003年7月号 掲載》


 
               死の恐怖からの解脱〈9〉

    
  ☆カルマ(業)の刈り取り

 たとえぱ、「実人生を霊界」、「舞台の劇を人間界」と考えていただきたい。

 私が舞台の上で「A」という人物の役柄を演じるとき、その「A」になりきって迫真の演技をすれぱ、観客に感銘を与え、私の人気は上がり、ギャラがよくなる。そして、実人生でも余裕のある豊かな生活を送ることができるようになる。ところが、演技が下手で怠けてばかりでセリフもろくに覚えていないようだと、大根役者の烙印を押されて、端役しかもらえなくなる。ギャラも少ない

 また、舞台の上では不遇な役であっても、その演技力と努力が高く評価されれぱ、実人生では恵まれた幸福な生活を送ることができる。このように舞台の上(人間界)でいかに修行するかによって、実人生(霊界)での生活が向上するかどうかが決まるのである。舞台の上(人間界)で与えられた役柄を、いかに真摯に演じきるかが、幸福を決定するキーポイントなのである。

 そのように、人間は「この世」で、心をこめて他人に尽くし、魂の向上に努めるべく使命づけられているのだ。

 私が、いろいろな著書で「人間界に生まれる理由は、前生の業や想念を償い、カルマを刈り取るためだ」と述べてきたことは、前に述べたようなことに近い。

 輸廻転生・因果応報の思想からすれぱ、霊にとっては、この世もあの世も、修行の場である。我々は知らず知らずのうちに、いろんな罪を重ねている。気がつかないうちに相手を傷つけてしまったこともあるだろう。しかし、次に生まれ変わって逆の立場になったりすることで、傷つけられた痛みを知り、他を思いやる優しい心をもてるようになる。それが人生の修行、勉強なのである。その心の修行のために、私たちは何度も生まれ変わらねばならない。

 霊魂は、この世では肉体の中にあり、来世では素(す)の状態で、それぞれの場に応じた修行を行なう。修行の結果は輸廻転生のたびに引き継がれていくものだと、私は考えている。そして、人の霊魂は、現世と来世を行ったり来たりしながら、自らを磨き続ける。


 では、輪廻とはどのように行なわれるのか。霊がその昔(この世にあったとき)何をなしたかが、判断の重要なデータとなる。何をなしたか、つまり業は古来、インドの人びとが宇宙の指導的理念として持ち続けていた「カルマの法則」にのっとる。

 カルマとは、人間の再生を支配している、原因と結果の法則である。悪因は悪業を生み、善因は善果をもたらす。「過去の因を知ろうと思えば、現在の果を見るがよい。未来の果を知ろうと思うのなら、現在の因を見るべし」(因果経)という「因果の法則」は、現世という枠を超えてその力を発揮する、大宇宙を支配する真理、永遠の規範である。

 「カルマ」とは、サンスクリット語で 「行為」という意味で、エマーソンはこれを「償いの法則」と解釈しているが、それはキリストが 「人はその蒔いた種子を刈り取らなければならない」 と言ったことと同じであろう。ニュートンの運動の第3の法則である 「あらゆる作用は、それと等しい反作用をともなう」 と同じ解釈をしてもよい。

 どの宗教も、説くところは同じである。仏教の『テーラガーター』(長老偈)では「人が善、または悪の行ないを為すなら、彼は行なったその一つ一つの業の相続者となる」と説く。「カルマ」は、あたかも天に向かって吐く唾と同じである。その唾は、吐いた当人にかえってくる。自業自得、その法則から逃がれることはできないのだ。

 つまり、肉眼には見えないが、天や地の神様 (それをやおよろずの神と言う) が、私たちの行往坐臥、心の奥底までを、ちゃんと御覧になっているということだ。まさに「天知る、地知る、我知る」なのである。

 現世での所業の一部始終は、すぺて「果」とし蓄積されている。死んだのち、私たちの霊はその「果」をうけて、いろいろなコースをたどることになる。霊界に行く者、地獄に堕ちる者、あるいは人間界に縛られて悪霊となる者など、さまざまに分かれることになる。

 かつて「昭和ブルース」という歌謡曲が大流行したことがある。
         ‥生まれた時が悪いのか、それとも俺が悪いのか。‥

 今、自分自身の置かれた境遇に不満を抱いている人が多いと思う。「どうして自分だけが……」こう思い、天の配剤に恨みごとを並べる人もいることだろう。この世だけに思考を限定している限り、これも致し方あるまい。

 だが、もし視界が「あの世」にまで開けたら、こうした人たちのほとんどは現在の不幸を克服できる。そもそも人間は祝福されて生まれてくるわけではない。修行のため、神の手で、この世に誕生させられているのである。



  ☆この世は魂の修業の場

 人間は等しく、「前生の業=カルマ」を負って生まれつく。このカルマを刈り取らない限り、何度でも生まれ変わる。

 人間はその人生において、数限りない悩みを抱え、もがき苦しむ。悲痛な叫びに満ちあふれた手紙が連日のように、私のもとに送られてくる。人生とは、なぜかくも深き苦悩に満ちているのか。私の回答はただひとつ、それは、この世が修行の場であるからだ。文面を読んでいただくことにしよう。

── 私の父母は、私が6歳のとき離婚しました。私は父に引き取られ、新しい母がきました。その母も子供を産んですぐ肺病にかかり、それからは妹をおぶって家事をしていました。そして私が小学校3年生のときに母は死に、3度目の母がきたのです。父は7歳のころから私に暴力をふるうようになり、殴る蹴る、2階から突き落す、とそれはひどいものでした。それで私は中学3年のとき、実母に引き取られたのですが、実母も冷たい人で、私は泣いて毎日を暮しました。

 中学を卒業した私は、逃げるように家を出て、20歳で緒婚しました。でも、夫がバクチ好きで、結局7年で離婚しました。その後まもなく私は再婚しましたが、その夫とも9年で別れて、いま子供と三人暮しの生活です。

 私はどんなに辛いときでも、子供にだけは同じような思いをさせたくないと、精一杯がんばってきました。それでも悩みがひとつあるのです。それは仕事が続かないということです。ある日突然、辞めざるを得なくなるのです。どうか私の悩みにお答えくださいませ。



 人間界における魂の修行で、いちぱん栄養になるのは悲しみ、つぎに痛みである。悲しみや痛みは、自分の魂を向上させる最高のスプリングなのだ。その視点に立つと、この人はもっとも恵まれた条件下に生まれている。この女性の人生は恋しみの連続で、魂は「ごちそう責め」にあっている。苦しめぱ苦しむほど、悩めぱ悩むほど、その魂は磨かれる。ただし、あの世を信じることができれば、である。

 科学の発達は、幼児の死亡率を著しく低下させ、不治の病とされていた死病を撲滅させてきた。しかし「少しでも長く生きたい」願望が加熟すると、「死にたくない」「死んだら、おしまいだ」と、死後の世界=霊界を否定することになってしまうのだ。

 転生したからには、カルマの刈り取りの時間が必要である。そのためにこそ、少しでも多くの人が早逝しないようにと、科学は発達してきたのである。これは、いわゆる神の予定のスケジュールだったのだか、われわれは科学という媚薬に酔ってしまい、大切な魂としての本分を見失ってしまったようだ。

 神の配慮に感謝し、心に愛をもつ。そうすれば、その素直な心が現実の形にも現われてくるだろう。この世での悲しみなど、嘆く必要はどこにもない。

 私はこの手紙を読みながら、フェデリコ・フェリーニ監督の名作『道』の1シーンを思い返していた。ヒロインのジェルソミーナは、頭は悪いが幼女のように素直な心をもった娘である。彼女は家が貧しいため、金で大道芸人に売り渡され、各地を転々と渡り歩く。ジェルソミーナは真心で主人に尽くすが、いつも冷たくあしらわれる。すっかり悲しみにくれて、夜の舗道でうずくまって泣いていると、綱渡り師がやってくる。彼女が、自分はこの世に生まれてきても何の役にもたたない人間だというと、彼は微笑みながらこう答える。

 「舗道の石や草や木を見てごらん。一見なんの役にもたたないようだが、ちゃんとそこになけれぱならない理由があるんだ。君だって同じだ。君には愛する力がある。君が微笑めば周囲は愛で満ちあふれる。そうすることが君の役目なのさ」

 この言葉に勇気づけられて、ジェルソミーナは、再び生きる意欲を取り戻すというわけである。フェリーニは、この台詞の中で、人間には悲しみや苦しみを乗り越えて生きなければならない理由があることを、はっきり表明している。それがすなわち魂を磨いて、人に愛を与えることである。最後に私もこの相談者に対して、同じような言葉を贈ろう。「あなたには、悲しみを乗り越えて生きなければならない理由がある」と。



 人間は誰しも自分の中に、神のミニチュアがいる。もちろん、それは他人も同じことだ。だから他人を愛することは、その内部の神の分霊を愛するということであり、結局それは、己を愛するということにほかならない。換言すれば、己の魂を向上させて1歩1歩、神様に近づくことにほかならない。それこそが人生の究極の目的なのである。

 私が講演会を催したとき、聴衆の一人からこんな質問を受けたことがある。

 「丹波さんの言う魂の鍛練をきちんとして、本当にすばらしい生き方をした人でも晩年、重病に苦しむケースがある。逆に、この世で不正、悪事ぱかりした人間でも大往生をする者がいる。いったいこの矛盾をどう考えたらよいのか」

 たしかに、この世のことだけを考えれば不公平、不公正なことは数多くある。しかし、これはこの世のことだけで考え、判断するから、あたかも矛盾のようにみえるのだ。あの世を含めた、もっと大きな視野で物事をみれば、こうした矛盾は見事に解決され、不公平は清算されていることがわかる。

 霊界の三種の神器は、「愛・奉仕・素直さ」である。これに対して、人間界の三種の神器は、「金・名誉・地位」だそうだが、それはともかくとして、まず自分自身をみつめることである。胸の扉を叩いて、自分の魂とじっくり相談してみることだ。そして、自分が何物であるか、前生では何をやってきた者なのか、内省することだ。つまり静かに瞑想するのである。そうすれば、人生の意味もはっきりみえてくる。私のアドバイスは、それだけだ。幸福な人生を送りたい、その願いを実現させる道は、ただひとつ。「自分の周囲にいる人間に対して、惜しみなく愛を与える」こと。あとは、実行あるのみである。

 A・デーケン上智大学教授は、1932年に北ドイツのクロッペンブルクという町に生まれ、子供のころの戦争体験から、死と隣り合わせの毎日を過ごし、必ず将来、生と死について勉強しようと心に決めたという。死を避けて通ることはよくない、死への過剰な恐怖が生まれる、死を積極的に学ぶことだという立場から「死への準備教育」の必要性を説き、「生と死を考えるセミナー」を実践されている。その氏は、こう語っている。「人間らしく生きるには愛すること、相手を思いやることです」と。

 臨死体験をした人も、一様に「死に対する恐怖がなくなった」と語り、この世でもっとも重要なことは「いかにして他人と愛情の通い合う関係をもつか」ということだと言う。人生で追究されるべきは、お金や名声などではなく、他の人との心と心の通じ合いなのである。

 このように、カルマの刈り取りは、他人に対して「愛と奉仕と、素直な心」で接することで実現される。そうするのは、かなり難しい。しかし、難しいから修行になると考えてほしい。われわれは、激しい欲望や憎悪、偏見に満ちた現世に生きている。つねに他人をうらやみ、ねたみ、さげすみながら生きているのだ。この人間界には誘惑も多いし、煩悩もかぎりがない。病気も多い。そういう多様な心(霊魂)の渦巻くるつぼのような世界で、あなたは試練を受けているのである。

 われわれに与えられた最大にして、もっとも根源的な使命は、「魂を浄化させる」ということにつきる。現世は来世の前生なのだ。人間が魂を浄化させるということは、なるぺく善いカルマを生んで、悪いカルマの刈り取りに努力することを指すのである。それが充分に行われて寿命をまっとうした人は、死後すばらしい故郷である大霊界へ行き、不充分な場合には、また人間界に送り出されてしまうのである。
                                          (つづく)