丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第34回〜
《2003年 6月号 掲載》


 
            死の恐怖からの解脱〈8〉

    
  ☆死を自覚すること

 前回の「エジプトの死者の書」につづいて「チベットの死者の書」にちょっと触れてみたい。

 平成5年にNHKスペシャル「チベット死者の書」として放送されて脚光を浴ぴた『チベットの死者の書』は、正確には『バルド・ソルド』と言われるもので、チベット文化圏で死を迎える人の枕元で、読まれる経典である。おそらくは自由自在に幽体離脱できるチベットの行者たちが、霊界の状況を見聞して、その体験を口伝によって代々伝えたものだろう。この書は、アメリカの人類学者エバンス・ヴェンツによって英訳され、オックスフォード大学出版局から1927年に出版され、ベストセラーになり、精神分析学のユングにも、多大な影響を与えている。

 この書には臨終から死、さらに再誕生へと転生していく、死後49日間にわたる死後の霊魂がたどる状態が段階的にかつ詳細に説きあかされている。ちなみに日本古来から伝わる「49日」、これは実に当を得た慣習である。というのも通常、死者の霊は50日前後、死んだ場所に居つづけると考えられるからだ。そういう「死者の霊」に説く、枕経のようなものが『チベットの死者の書』といえよう。

 ──霊魂が体を去って往く時、自分が自らの肉体を離れていることに気づき驚く。親族や友人たちが、自分の肉体に向かって嘆き悲しみ、葬式の準備をしているのを上から見る。彼は必死になってこれらの人に話しかけるのだが、その声は相手にとどかず、姿も見えない。

 これらの内容は、近似死体験者の回想とも酷似しているが、さらに『チベットの死者の書』は、もはや「蘇生した人びと」には知ることのできない、その先の世界について言及していく。

 彼は〃透明な光〃あるいは〃純粋な光〃と呼ばれているものと出会うのであるが、色別に書かれているのがおもしろい。

 たとえば「薄墨色の煤煙のような光が近づいてきたら近寄るな、これは地獄からの迎えである」「人間界からのくすんで青みがかった黄色の光を溺愛するな、それは汝を迎えにやって来る、汝の激しい我執が貯えられ性癖の道である」。
同様に、ぼんやりした緑色の光がきたら、赤い光がきたら、というように書かれているのである。

 『チベットの死者の書』における賢人たちは、立派に死ぬために必要とされている知識を十分に備えているかどうかにより、死は美しくも、また見苦しくもなると言っている。

 そして、生きている人間が死を肯定的にとらえるように仕向け、死を迎えた人びとが本来あるべき精神状態で死後の世界へ行げるように、教えているのである。

 みじめな「死にざま」をさらさないためにも、死ぬ瞬間の経過は熟知しておいたほうがいい。そしてこの『チベットの死者の書』には、早く自分が死んだことを自覚することの大切さが詳しく述べられている。

 と言うのも、死の経過を自覚できる人はよいが、いきなり死んだときは、あの世に行ってから戸惑うものなのだ。「ここはいったい、どこなのだろう? 周囲の雰囲気がなにか変だ」という具合で、自分が死んだということが納得できにくい。

 「死ぬのはいやだ」と、もがき苦しみながら死んだ場合や、あの世のことを頭から否定してかかった死者たちは、「死ぬのはいやだ」という未練も手伝って浮かばれない。そういう霊にたいしては「気の毒だが、あなたは死んでしまったのだ。どうか迷わずに、あの世に渡ってほしい」と、はっきり告げることが重要なのである。

 このような低級霊地縛霊(自分の死に気がつかないで、その場所にとどまっている霊)とか、浮遊霊(この世に、未練や執着を残していて、ふらふらしている霊)と言う。成仏できない不幸な霊になる原因は、「死んだら、それまで」と考えていることから生じる。

 したがって、死んでも「自分が死んだのだ」ということが自覚できない。たとえぱ、交通事故で死んでも、その現場に自分とそっくりの死体があるのに、自分は生前と変らないし、考えることもできるから、「あれっ、死んでないじゃないか」と思いこむ。そういう錯覚に陥って、その場にとどまってしまうことになる。自殺でも、同様なことが起こりやすい。

 この世とあの世は別々ではない。霊界のある場所は四次元的世界なのだ。すなわち、あなたが住んでいる家は、霊界の美しい花園と重なっているかもしれないし、薄暗い低級霊がひしめきあっている地獄と重なっているかもしれないのだ。

 こうした「この世と、あの世」の重なりを、巧みに表現したフランス映画がつくられている。それがジャン・コクトー監督の『オルフェ』だといえば、年配の読者なら記憶に残っている方も多いだろう。

 映像はパリの賑やかな通りだ。「この世の人ぴと」が楽しそうに話しながら歩いて行く。カフェテラスでは、若い恋人同士がおしゃべりに夢中になっている。ところがその人びとと擦れ違ったり、ときに腰を下ろしている沈黙の人びと、すなわち「あの世の人ぴと」がいるのだ。沈黙の人びとの話が次第に聞こえ始めると、今度は「この世の人びと」の会話が消えてしまう……。

 つまり同じ場所にいながら、お亙いに見ることも知ることもできない世界なのだ。いわゆる、迷える霊である。これらの霊を霊界へ送り届けるには、「死んだという事実」を知らしめるのが大切なのである。自分の死に、まず本人が気付く、それが霊界で幸福になれるかどうかの瀬戸際である。死を自覚さえすれば、それからの手続きは順調に運ぶのである。




     ☆死へのプロセス

 人の「死にぎわ」は不思議な運命(さだめ)を感じさせるし、また実に多くのドラマを持っている。この世に〃生〃を授かったものには、かならず〃死〃がおとずれる。

 「死」といえば平成4年から、余命が6ヵ月以内と診断されると、保険金の一部が受け取れる「余命6ヵ月保険」(リピング・二ーズ特約)が始まり、同6年9月8日の東京新聞によると、半年足らずで契約数が250万件という爆発的な伸びをみせたそうだ。終末期を尊厳をもって過ごすには、まとまった金か必要になるというわけである。そのテレビCMも、お墓やお葬式の場面など、これまでにはなかった「死」を連想させる「縁起でもない」表現だったので、話題を呼んだものだ。

 死に対する考えも変化してきている。とは言うものの「かぎられた人生は有意義かつ楽しく過ごされなければならない。人間は死んだらそれまでである。すベてが無に帰する」、こう考えている人が多いのではなかろうか。どれほど美貌と豊満な肉体を誇っている女性も、死ねぱ白骨と化す。その虚しさから、死は無であるという理論か導き出されるのだろうが、本当に死の向こう側は無であり、それでおしまいなのだろうか。

 答は、否である。ただしそれを証明する物証はない。だが多くの人たちが、死の先に、この世とは異なった世界があることを証言している。

 私は20余年を「死後の世界」の研究に費し、それに真正面から取り組み、研鑽を重ねてきた。そしてその結果、確固たる結論を導き出したのである。「死は決して恐るるに足りない」ということを。

 私たちの肉体は、この世に生まれた以上、かならず死すべき運命のもとにある。しかし肉体か滅んだ後も、霊魂が滅びることはない。死後の世界、すなわち霊界で永遠に生きつづけるのだ。すなわち、あなたの霊魂は不滅なのである。

 これは決して独善的な主張ではない。死後の世界の存在は、今日では科学の立場からも実証される段階にきているのだ。日本ではまだ「霊科学」の研究はすすんでいるとはいえないが、諸外国ではノーペル賞のシャルル・リシュー博士を始め、多くのすぐれた科学者たちが、さまざまな実験や研究を通して、霊魂の存在、霊界の存在を解き明かしている。私自身も、これまでに千冊をこえる書物を熟読し、古今東西の霊能者たちの証言、近似死体験者の報告や面接調査、霊能者との対話を通じての啓示などによって私自身が納得できた結論を紹介するわけである。



 さて死の瞬間、私たちはどういうことを経験するか。死ぬことによって、人はすべての感覚を失うとされている。だが、真実はかなり違う。死ぬということは、肉体が滅びることにすぎない。魂にとっては、たんなる移行である。

 ──どこからともなく耳障りな不快音が聞こえはじめ、長くて暗い筒状のトンネルのようなところを急上昇するような感覚に包まれる。これが幽体離脱の感覚である。しかしふと下を見ると、せいぜい2、3メートルの高さの天井あたりに自分がいることがわかる。そして鳥瞰(ちょうかん)するように自分の死体を見下ろす。

 ごく普通の死の場合、死者の周りには医師や看護婦を含めて死を看取る人ぴとがいる。彼らのある者は泣き、ある者は死を悼む言葉を投げかけ、またある者は呆然と立ち尽くしているだろう。それらの人びとの表情や動き、言葉といったものすべてが、死者にはハッキリと理解できるが、このことは死者自身をも戸惑わせる。自分は死んでいないのではないのか、そう思って大声をあげ、訴えようとする。だが、声は出ない。そこで死者=意識をもつ幽体は考える。
 「どうやら、意識と肉体とが別々になっちまったらしい。これが死というものなのかもしれないな……」。ここでやっと、自らの死を納得するのである。

 臨終の席で展開されるドラマは、映画「お葬式」(伊丹十三監督)を彷彿させながらも、どこか微妙に違っている。医師が席を立つ頃、いままで聞いたことのないような、やさしい呼びかけを耳にする。そして、あの世からお迎えの人びととディスカッションをする。

 このように、死んだときも、一人ぽっちの人はいない。例外なく縁ある霊か温かく迎え、第二の人生への指導をしてくれるのである。

 そのうち突然、目も眩むような〃白光体〃に包み込まれる(これは、仏の光明にも関連してこようか)。再び、どこからかお迎えの人が現れる。その声は、透明であたたかい。呼びかけの内容は、天界への誘いである。
 「こちらへおいでなさい。あなたが、これから生きる場所へ案内してさしあげます」。
死者の幽体は、その声に導かれ、中空高く飛翔する。

 そして辿りつくのが、精霊界である。丘や谷や平野がひらけ、田園、湖水・河川、公園・草花、人間界とまったく変わらない自然の風物がある。この精霊界で私たちは霊魂の浄化を行なう。いわば魂を裸にする作業が行なわれるわけだ。

 あるとき、霊は呼び出され、空間に映像が浮かびあがる。子供から大人へと成長していく人間の姿が映し出されている。よく見れぱ、それは、あなた自身の誕生から死に到るまでの姿が細大もらさず再現されているのだ。俗に言う「閻魔の鏡」(英語では、ライフレビュー)である。

 精霊界における「雲のスクリーン」に、あますところなく映し出される、自分の性格と所業。仲間に対する裏切り、不倫の関係、さまざまな行為が暴き出されていく。そういった己れの姿を見たとき、人は恥ずかしさと絶望感にうちひしがれてしまうだろう。ある人は恥ずかしさのあまり、顔を覆うかもしれない。」

 キリストは、「まず罪なき者より石を打て」とおっしゃった。罪を犯した者に対して、多くの人たちが石つぶてを投げようとしたときの言葉だ。この一言で、誰も石つぶてを投げることができなくなったというが、このことは、すべての人びとは、この世で汚辱にまみれ、恥ずべき行為を行なっていることの証明であろう。それはまた、新しい霊たちが、どれほどに、この世のアカを身につけているのか、そして、そのアカはどの程度に汚れたものなのか、アカを落すにはどれだけ時間がかかるかを測ることでもあるのだ。

 この反省する過程を「素の状態になる」と呼びならわしている。人間界で身につけた塵芥(ちりあくた)をふるい落とし、その人本来の姿に立ち戻るのだ。

 肉体という殻が消えてなくなったとき、そこに残るものは貴方自身の心、すなわぢ魂そのものだということを知るべきである。否、地球に暮らすもの全てが、魂の存在を知らねばなりますまい。

 さて、ここが生まれ変わりの第一ステップである。この精霊界において、地獄行きになる霊と霊界行きになる霊と、ふたたび人間界へ生まれ変わる霊魂とが選別されるのだ。

 なぜ、そのように振り分げられるのか? ここでどうしても霊魂の存在理由と、人間界へ霊魂が送り込まれる理由を述べなけれぱならない。
                                          (つづく)