丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第33回〜
《2003年 5月号 掲載》


 
              恐怖からの解脱 〈7〉

    
  ☆「光の生命」との出会い

 まず、あなたが事故でも重病でもいい、どこかの病院に運びこまれたか入院していると仮定して、話をすすめよう。

 担当の医師が、あなたの家族に「ご臨終です」と告げている言葉が聞こえてくる。と同時に「ブーン」というような耳ざわりな音が聞こえ始め、あなたは長くて暗いトンネルのようなところを、たいていの場合は上に向かって猛熱な速さで通りぬける。

 やがて、そこから急に明るいところへ出る。数千メートルも上昇したつもりなのに、あなたはせいぜい病室の天井のあたりにいる。そして、いままで自分がそのなかにいた自分の死体を眺めている。肉親たちが、あなたの死を悲しんで涙を流しているのが見える。あなたはきっと「私はここにいる」と呼びかけるだろうが、誰にも気づかれることはない。あなたは中空に浮かんで、自分の死体を跳めながら、少し不安になってくる。どうしたらいいのか、と。

 やがて誰かが、あなたの側にやってくる。それは、あなたより先に死んだ肉親や親戚、あるいは友人といった霊だろう。しかし、いままでに一度も体験したことのないような愛と暖かさに満ちた霊、「光の生命」とでも呼ぶぺき何かが、あなたを包みこんでしまうだろう。そして、いつまでもこの「光の生命」に包まれていたいという気持ちになる。

 この「光の生命」は、死に瀕している人とコミュニケーションを開始する。その意志の疎通は、体験者の母国語で行なわれるわけではないが、完全に理解し、瞬時に諒解するという。

 その問いかけは、
「あなたには、死の覚悟ができていますか?」
「あなたには、死に対する心の用意がありますか?」
などという質問が多いが、それはけっして責めたり脅すためではない。また、対語のなかで、自分の一生がどんなものであったかを一瞬のうちに見る(省察、一生のフラッシュバック)例も報告されている。

 ここまできて、あなたは急に手放されたような感じを受ける。これはまだ死ぬべきではないと、この世に引き戻されることを意味している。その場合、あなたは〃この世〃に蘇生してしまうのだ。

 よく家族の念が強いときは、死者の旅立ちを引き戻すことになると言われる。たしかに「帰ってきて!」と強く念を送ることによって蘇生することがあるというのは、近似死体験者の証言によく見られる。

 でも、それはまだ、この世でやることがすんでいなかったから送り返されたのである。生き返るというのは、まだまだその人が人間界において達成しなければならないノルマが残っていたことにほかならない。

 カーリス・オシスアーレンダ・ハラルドソン博士『人聞が死ぬとき』(笠原敏雄訳/たま出版)によれぱ、よみがえった患者の多くは、過去帳を調べられたりして、この世に戻されたのだという。来るぺき人ではなかった、つまり、ほんとうは本人の寿命がまだそこに達していないので帰ってきたのである。

 この世でやることが残っているというのは、すなわち、カルマの刈り取りが終わっていないということである。

 生まれかわりもまた、カルマの刈り取りがいまだにすまないから、再び人間界に送り込まれることにほかならない。



 近似死体験は世界的に研究されていて、そのレポートは膨大な数に達している。そして牢固として動かすことのできない最大公約数的な事実が山のようにある。すなわち、人間は死ぬと幽体離脱して上昇し、自分の死骸をある高さから見る。その後、白く輝く発光体に出合う。

 この非常に明るい説明しがたいほどの輝きを見せる「光の生命」との出合いは、体験者に絶大な影響を与える。近似死体験者が蘇生後、死を恐れなくなり、死後の生命を信じるようになり、神の加護によって生かされていると感じる共通した現象の最大の原因が、この「光の生命」との出合いであることを、先の三人(E・キューブラー・ロスレイモンド・R・ムーディJrモーリス・ローリングズ)の医師は等しく認めている。

 このような近似死体験者は、とばくちではあるが霊界の様子、状況を経験したわけだ。そのために、霊界・人間界のすぺてが、大きな神のカであやつられ統制されているということを、頭から足先まで、まるで光に貫かれたように強く実感してきている。「自分にとって死はこわくない」という強い確信のもとに生きていられる。しかも、「光の生命」との出合いで、「これが愛だ」ということを体験している。そこで、自分が感じた愛を、こんどは人に少しでも分かち与えようとするから、結局は善行を重ねることになる。つまり、カルマの刈り取りに励むことになる。近似死体験によって、ほんの一瞬、霊界を垣間見ただけなのだが、それでも生き方が一変する。まさに「あの世がわかれば、この世が変わる」のだ。

 こうして再び〃あの世〃に行ったときには、まちがいなく良い待遇をされることになるわけである。



  ☆死者の書

 博士たちなどの体験事例から総括させていただいた死のモデルは、神秘の国チベットで長く口誦(こうしょう)されてきて、八世紀の仏僧パドマ・サンバーヴァがまとめ、ツォギエルが書き写して山中に埋蔵したという『バルド・ソドル』、すなわち『チベットの死者の書』の教える死の段階と、とてもよく似ている。

 古くから世界の各所に『死者の書』と呼ばれる特異な書物がある。これらは、単に特定の時代、特定の宗派、特定の国にだけ通用する死者儀礼の書であろうか? 否である。

 これらは決して、宗教的幻想や哲学的妄想の産物ではない。死や、死後の世界についての実相を、経験的に実証的に論及したものなのだ。その意味で「安全にあの世につくためのハンドブック」と言うことができる。いずれ必ず訪れる「死」を、数千年の昔から今日に至る賢者の先達たちが、その〃素の心〃に照らして見つめてきたことを書き上げたものなのである。

 現世と霊界との関係についての記述は、古代から数多く見られるが、その原典と考えられているのが、『エジプトの死者の書』である。この書の古いものは、紀元前4200年ごろのもので、エジプト・セブーテ王時代の、王墓の棺に描かれた絵文字と言われている。その絵文字を集大成して『死者の書』として世に出たものが、『ギリシャの死者の書』に、ローマに流れれぱ『ローマの死者の書』となる。

 では原典の『エジプトの死者の書』には、どのようなことが記述してあるのだろうか。

 この『エジプトの死者の書』は1901年、大英博物館エジプト学部長W・バッヂ博士の手によって再解読されるに到った。ここで初めて『エジプトの死者の書』の全貌が明らかになったのである。『エジプト死者の書』今村光一氏による抄訳は、紀元4〜5000年に「アニ」という告白を中心に編集されている。「アニ」の職業は、王宮に仕えた書紀。彼が実在の人物であることは、エジプト遺跡の発掘で考古学的に既に裏づけされている。

 そのなかでも多いのは、霊能力者が病人を治した事例である。いまでも、病人や怪我人の治療を「手当てする」というが、この「手当て」という言葉は現代医学以前からの言葉なのである。霊能力者の違大な力を信じた当時の人びとは、その手を患部に当ててもらうだけで病気や怪我を治した。その奇蹟が、エジプト文明の古えから語り継がれてこの言葉になったものである。とくに、治病の実さえあがれぱ論理は二の次と考えるイギリスでは、心霊治療=サイキック・ヒーリングは盛んである。

 アニは、『死者の書』の中で、次のように記述している。  

── 私はまもなく目を醒ましたが、目の前に妻が立っているのを知って驚愕した。妻は一年前に死んでいるのである。私は妻に問うた。「これは夢なのか」

 妻は答えた。
「夢ではありません。あなたは死んで後、精霊界に達したのです。私は、あなたを迎えにきたのです」

 私は記憶をまさぐった。自分が死ぬとき、周囲の者が涙を流し、僧侶が経を読んでいた光景が思い出される。遠い昔のことのように思えるが、ほんの一瞬のうちに精霊界に達したのだろう。私は、それからしばらく精霊界に留まった。日に日に、私は自らの死を自覚するようになっていった。

 まもなくして私は、精霊界の奥を目指して歩いた。川に突きあたった。川のほとりに霊界の太陽神アラが待ち受けており、「生前の行ないについての審判が行なわれる」と宣言した。

 太陽の神は、天秤を持ち出し、いきなり、私の胸から心臓を抜き取ると、天秤の皿の一方に乗せ、一方にアマトト羽毛を乗せた。もし、心臓のほうがこの羽毛より重ければ、罪多き者とされ、怪獣の目の前に投げ棄てられてしまうのだ。私の心臓はアマトトの羽毛よりも軽く、無事に霊界に渡ることができたのである。

 その後アニは、霊界での生活を送り、しばらくして、現世に戻っできた。霊界見聞録『死者の書』を書いたのはそれからのことである。私はアニの霊魂が、その記憶を持ったまま転生したのであろうと推測する。

 この本を読むと、エジプト人たちは、人間が死ぬと、鳥の姿の霊「バー」というものになって、あの世に飛び立ち、現世とあまり変わらぬ形で永遠の生を送ると考えていたことがわかる。

 死後の世界、の描写は決して同じとはいえない。当然、「霊界が本当にあるなら、両者はもっと同じであるはずだ」という疑問もでてこよう。

 しかし、私はこの違いはあって当然だと思っている。死後の世界、つまり霊界で霊が最初に出合う多くのものは、各霊の描くイマジネーションによって左右される場合が多いからである。だから各霊が体験する霊界の様子は、生前に聞かされていた〃あの世〃の姿であったり、〃この世〃の人たちにわかりやすいように、その土地土地の伝承などにあわせて伝えざるをえないことも多いと考えられるからである。

 そうした一例として、つぎに『日本霊異記(いき)』が伝える「死後の世界を見てきた日本人の初の記録」を紹介しておこう。『日本霊異記』という本は、仏教の影響を強く受けているが、そのなかにも、いったん死んで蘇生した人の話がいくつか収められている。いわば日本における「死者の書」と言っていい。

 豊前の国(今の福岡県)の宮子郡の少領(郡の次長)で、膳(かしわで)の広国という人が死んだときの話が、それだ。この記録は、日本人の死後体験としては最初の記録であり、その年代も慶雲2年(西麿705)と、はっきり記されている。広国はその年の9月15日に死んだが3日後、すなわち9月17日の午後4時ごろ息をふきかえして、死んだときの状態をつぎのように話したという。

── (私が死ぬと) 二人の使者がきました。一人は大人で、一人は童子でした。いっしょに行くうちに、途中に大きな河がありました。橋がかかっていて、その橋には金が塗ってありました。橋を渡りますと、とてもすばらしい国があります。その国の王は私を呼びよせて、こう言いました。
 「もし父を見たかったら南の方へ行ってみよ」

 そこで、言われたように行ってみると、父がおりました。父は、とてつもなく赤く熱した銅の柱を抱きかかえて立っていました。鉄釘が37本も身体に打ちこまれ、鉄の杖で朝300回、昼300回、夜300回と合計900回も毎日ぶたれていました。私はそれを見て、悲しみ、父に訊きました。
 「いったいなぜ、このような責め苦を受けておられるのですか」

 「私がこんな苦しみを受けていようとは、息子のおまえも知らなかったであろう。わたしは妻子を養うために、あるときは生き物を殺し、あるときは八両の綿を貸して十両に増して取り、あるときは小斤(の単位)で稲を貸して大斤(の単位)で取りたてた。
 また、あるときは他人の物を奪い取り、あるときは人妻を犯した。さらに、父母に孝養もせず、上長を敬わなかった。このような罪のために、37本もの鉄釘を打ちこまれ、毎日900回も鉄の杖でぶたれるのだ。
 ああ痛い、ああ苦しい。いつになったらこの罪が許されることやら。帰ったらすぐに仏像をつくり、写経をして、私の罪をつぐなっておくれ。私はきっと、来世は赤犬に生まれかわることだろう」

 父はそう語りました。こういった善悪の応報を見て、恐れおののいて戻り、かの大橋のところへきますと門番がおりました。前に立ちふさがって、「いったん中へ入った者は、絶対に外へ出さぬ」と言います。困って、うろうろしていましたら、私が死んだとき迎えにきた、あの童子が現われた。
「はやく行きなさい」

「あなたは、どなたですか」

 そう聞きますと、「私は、おまえが幼いころ写した観音経の観音だ」と答えました。


 『日本霊異記』の上巻30話として収録されている同話は、仏教的な装飾を取り除いて虚心に読めば、各地で報告されている死後体験と似てはしないだろうか。

 他にも、奈良時代智光という僧侶が、9日目に蘇生するまでに体験した「地獄巡り」が語られている。彼は、行基という高憎の名声をねたんだので、地獄に堕ちたという。

 同書は、善を行えば福を受け、悪を行えば必ず災いを被るという、因果の理法を人びとに知らせるために、薬師寺景戒(きょうかい)がまとめた仏教説話集であるが、これらの書は、執筆された時期も場所も遠く離れているわけだが、描かれている霊界の本質については、微妙な表現の違いこそあれ(見方・感じ方の問題だろうが)、そっくりなのである。

 先述したように、どうして国や人種、あるいは宗教の違いによって〃あの世〃の様子が異なるのかといえば、〃あの世〃とは想念の世界であるからなのだ。したがって臨死の体験でも、仏教の信者だと「三途の川を渡ると、寺院のような建物が……」となり、キリスト教の信者だと「羽のある天使が……」となる。つまり、各自の意識にインブットされたものか映像化されるのだ。そのインプットされている情報が誤っていると、たとえぱ「霊魂はない、俺はまだ生きている」と強く思っていると、平成の今も、古戦場の跡で源平の戦いを続けてみたりしてしまうわけだ。

 考えようによっては、これほど危いことはない。もし霊界で「僧い、殺してやりたい」と念じたら、たちどころにその効果は殺人光線として発動されることになるだろう。この念力を悪いほうに使うと、それこそ超大国でひそかに、しかし血道をあげて研究されている超能力ウェポンになってしまうのだ。それほど、人間の想念のバワーというのは、すごいのである。
                                          (つづく)