丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第30回〜 
《2003年 2月号 掲載》


 
              恐怖からの解脱 〈4〉

    
  ☆前世の記憶

「バージニアビーチの眠れる賢人」と呼ばれたユドガー・ケイシーは1909年から45年1月3日の死ぬ日まで、膨大な数のリーディングを遺している。
 リーディングというのは、助手あるいは術者の暗示によってケイシーが催眠状態となり、さまざまな透視や予言を行ない、「フットボールをテニスのラケットで打つよりも当たる」と言われるほどの確率で、そのほとんどを的中させたものである。
 これには数多くの病気の診断、治療に関する「フィジカル(健康)リーディング」が9000件、その人の抱えている問題に影響を及ぼしていみカルマを指摘する「ライフ(過去生)リーディング」(言い換えるなら「生まれ変わり」リーディング)3000件がある。
 たとえば、ある人物について、「あなたは200年前、大阪の薬問屋の息子で太助という名前だった。父親は助左衛門、母親はマツ。得意先は○○屋、××屋、△△屋……」というように言い当てる。で、実際に大阪に行き、200年前の資料を詳細に調べて、まさにそのとおりという確証が得られると、その人物は太助の生まれ変わりということになる。
 ケイシーのライフ・リーディングでは、まず、その人の占星学的なことが説明され、今生に影響している過去生でのことが解きあかされたという。過去生での名前や職業、その人生での善悪が指摘されたのである(病気や怪我なども、過去生でのカルマに起因することがある)。
 このとき、ケイシーは聖書の「人は蒔いたものを刈り取らなけれぱならない」という言葉を使ったそうだ。

 アメリカの『オムニ』誌1984年8月号によれば、シカゴ州立大学の哲学教授ジェイムズ・パレイユ博士が、生まれつきの盲人たちに逆行催眠をほどこして、彼らの記憶を前世までさかのぼらせる実験を行なった。すると、前世では目が見えたことを示す記憶を思い出したという。
 たとえぱ、ローソクの炎がゆらめく様子や、人の顔のごく細かい特徴である黄色っぽい歯や皮膚の小さな染みなど、生まれつきの盲人の方には思い描けないであろうイメージが数多く語られたのだ。
「太陽の光が、お金持ちのつけている宝石にあたると、強く反射するので、私は目をそらさずにはいられない」という、このような前生におけるイメージは、光の反射のまぶしさを実際に体験した者でなければ決して表現することはできないものであり、バレイユ博士は、こうした実験結果によって、転生は科学的事実であると主張したのである。
 普通の人間の場合は、生まれ変わってくるときに、前生や霊界の記憶といったものを魂の深層部分に封じこめられ、忘れ去って生まれてくる仕組みになっている。前世で、どのようなことをしてきたかということは、今生の修行にはそう役には立たない。むしろ、そのような霊界での記憶は、人間界で修行をするときの障害にすらなるからだ。しかし、ときには前世の記憶を持ったまま生まれてくる子供たちがいるのである! そして、その内容が歴史的に観て、事実だと証明できるものがあるのである。
 インドのマディア・ブラデシュ州のシャプールという街で、1948年3月2日、スワーンラタ・ミシュラという女の子が生まれ、二つの前世の記憶を示して、家族や周囲の人びとを驚かせた。
「自分の前世はカトニ市のバサク家の娘で名前はピヤといい、結婚して二人の息子がいた」と言うのだ。もちろん息子の名前も覚えていた。その調査の結果、カトニ市にバサク家があり、彼女をバサク家の人びとに会わせたところ、すぺての人びとを見分けることことができた。
 このスワーンラタは、前生でバサク家のビヤとして39年まで生き、次いでアッサム州ジレットに生まれてカムレッシュとして9年ほどの生涯を送り、そして48年に、ミシュラ家に生まれて、二つの前生の記憶をよみがえらせたことが判明したのだ。普通の場合には次の転生まで200年ぐらいかかるのだか、この子のように死んで間もない時は、前生の記憶をもっている場合が多いようである。
 彼女の「前生の記憶」は、アメリカのヴァージニア大学の研究チームが、世界各国からの「生まれ変わり」の実例約2000を調査したうちの代表例で、証人や追跡調査がもっともよく行き届いたものの一つとされている。同大学の研究例はほかにも多くあり、それらの例は『前生を紀憶する20人の子供』(叢文社・ヴァージニア大学出版、今村光一訳)に収録されている。
 前世記憶といい、予知能力といい、これらがたんなる超能力ではなく、霊界の存在を裏づけるものという考え方に立ってこそ、はじめて理解されるものである。



  ☆輪廻=生まれ変わり

 科学者たちにも「生まれ変わり」を認めさせることになった、催眠術を使った有名な事例を紹介しておきたい。
 催眠術を使った記憶の遡行(そこう)は、施術者の暗示が強く作用するので信頼性が薄いという批判があるが、私はそうは思わない。被術者(前世を思い出す人)の記憶が、施術者・被術者、他のだれも知らない事実を告げたとすれば、そして調査の結果、それが歴史的事実に合致していたとすれば、充分に「生まれ変わり」の証拠能力をもつと思っている。
 アメリカのルース夫人の場合、アメリカとイギリスでたいへんな反響を巻き起こした。1952年、コロラド州プエブロ市でのことだ。ルース夫人ば、催眠カウンセラーのモーリー・バーンスタインに催眠術をかけられ、年齢をどんどん退行していった。
「あなたは12歳です。家の中はどうですか?」
といった形で当時の記憶をよみがえらせる。
「3歳になりました。ママはどこにいる?」
「O歳生まれたばかりの赤ちゃんです。何が見えますか?」と、さかのぼる。
 バーンスタインは、さらに時問をさかのぼった。すると彼女は"前世の記憶"を語りはじめたのである。
 彼女は1798年にアイルランドで生まれ、ブライディ・マーフィと名乗った。長じて弁護士と結婚し、ベルファストなどで生活したという。彼女の話をもとに、イギリスの新聞社、図書館、歴史学者などが事実を照合したところ、ルース夫人の語った話が正確であることが立証されたのである。
 当然、生まれ変わりを認めない人びとからの反論も百出した。具体的にいうと、アイルランドで金属製のベッドを使っていたことや、米を食べたことがあるという話は、歴史事実に反するというのだ。ところが、さらに調査が進むと、当時のアイルランドで鉄製ベッドが使われていたことか判明したし、米についても輸入されていたという事実がわかったのであった。彼女の前生の記憶によって、歴史書を訂正しなければならなくなったわけだ。

 欧米の映画でも、輪廻転生を扱った作品が増えつつある。テレビでも放映されたJ・リー・トンプソン監督の名画『リーインカーネーション(転生)』をご覧になった方は、主人公の男か、35年前のある男の生まれ変わりであるとの示唆により、前世の男の生まれた街を探しだしていく数々のシーンを思い出されることであろう。
 輪廻とは、サンスクリット語の「サンサーラ」を翻訳した言葉で、「生と死を繰り返すこと」という意味である。輪廻転生といえば、チベット代々のダライ・ラマ(チベット語で、大海のような深い知恵をもつ聖者、という意味)は、観世音菩薩の化身と信じられ、すべて"生まれ変わり"によって受け継がれている。
 最近の例を紹介しよう。1933年、第13世ダライ・ラマか"水鳥の年"(チベットの年号)に57歳で、首都ラサで亡くなったとき、塩で保存処理された遺体の頭が南向きから東北に向きを変えた。すなわち、新しい指導者(再生者)は北東で発見されるというお告げである。さらに1935年の夏、摂政が聖湖ラモイラッツォ(ダライ・ラマの魂が住むと言われている)で、水面に祈りを捧げていると、ア・カ・マという三つのチベット文字が水面に浮かびあがった。つづいて、緑と金色の屋根をもつ僧院と、青緑色の瓦の家が浮かんできた。
 これらのヒントを携えて、ラマの高僧 や高官たちが各地に散っていったが、1936年に北東地方を探していた調査団が、クムブムの僧院で緑と金色の屋根を見つけ、さらに近くのタクツェール村で、青色の瓦屋根の家を発見した。その家には、若い夫婦と3歳の男の子(バ・モ・トン・トゥルプ)がいた。
 厳密なテストが始められた。団長であるセラ僧院のラマは下男の衣服を着て、代わりに若いローサンが団長のふりをしたが、幼児はすぐ本当のラマ僧の近くに行き、首にかけていた三世のダライ・ラマの数珠をくれとせがんだ。ラマ僧が「自分が誰であるかを当てたら」と言うと、驚くことに「セラ・アガ」(セラのラマ僧)と答え、そのほかの人びとが誰かをも答えたのである。そして子供は、数多くの品物のなかから、ダライ・ラマの持物だった数珠、太鼓、杖を選り出してみせた。
 摂政が見た三つの文字、アはその子が住んでいた地区の名前アムド、カはクムブム、あるいはカとマで近くの僧院カルマ・ロルバイ・ドルジュを指すものと解釈された。その後、この男の子か、どのようにしで第14世となったかについては『ダライ・ラマ自伝』(文藝春秋社)を読んでいただきたい。
 1989年にノーベル平和賞を受けたダライ・ラマは「死とは私にとって、古い衣服を脱ぎ捨てるほどの意味しか持たない」、あるいは「輪廻転生は、すべての生きとし生けるものに等しく起き、来世を自ら選びとることも可能である」と語っている。
 ちなみに『ダライ・ラマ「死の謎」を説く』(クレスト社)のなかで、ダライ・ラマは、転生の思想を信じない=現世しか認めない人の場合、死の恐怖を軽減する方法としては「現実に死が迫ったなら、酒でも飲み、残された時問を楽しむことだ。やがて人生と共に、恐怖も終るだろうから」としか答えようがない、と嘆じている。



  ☆仏教の転生物語

 仏教には「ジャータカ」と呼ばれる経典がある。これは、お釈迦さまが過去世で虎や兎であったとき、我が身を犠牲にして菩薩行を実践したので、その結果として、今生で仏陀としての悟りを得たという物語である。法隆寺の玉虫厨子に描かれている「捨身飼虎」は、その説話なのである。
 お釈迦さまは、目連(もくれん)という神通力をもった弟子が、頭を割られるという非業な死をとげたとき、「彼は、父母に悪い感情を抱いて、罵ったり、道理に合わないことをしたので、生まれ変わるたびに撲殺されてきたのだ。自らの行為(業)の報いは、必ず自身で受けなけれぱならない」と、前生での因縁を語っている。ちなみに目連尊者は、心の垢を洗い清めて、生死の苦しみの連続=輸廻から解脱し、涅槃(ねはん)の境地に入ったという。
 また、「若葉しておん目の雫拭(ぬぐ)はばや」という芭蕉の句で知られている唐招提寺の鑑真(がんじん)和上が、12年もの歳月をかげて、やっと12回目で日本に漂着したのは有名な話だが、度重なる遭難と漂流、疾病などで盲目となってまで、なぜ和上は来朝したのだろうか。
 それは、和上が崇拝していた智顎(ちぎ=中国の天台宗の創始者)の師匠にあたる南岳大師慧思(えし)が、聖徳太子に生まれ変わっていたからなのである。敬慕してやまない先師の生まれ変わりである聖徳太子の地、日本に心をひかれたのだろう。『唐大和上東征伝』に、大和上(鑑真)が「南岳の思禅師は遷化(せんげ)の後、生を倭国の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度せりと」と語っていたことが記されている。つまり鑑真さんは、聖徳太子が南岳慧思の生まれ変わりであると信じていたのである。そして、日本の天台教学を大成した慈覚大師円仁(えんじん)も「大唐の南岳思禅師の後身聖徳太子、不世の徳を以て、この国に転生す」という表文を、朝廷にたてまつっているのだ。
 しかも、日本最古の近似死体験者レポートを数多く含む『日本霊異記』の「大部屋栖野古(おおとものやすのこ)極楽国に往還す」の記述によると、その聖徳太子は聖武天皇に転生したことになっていて、まことに興味深い。
 さらに、これも有名な話だが――
 衛門(えもん)三郎という欲張りが伊予の国にいた。ある日、一人のお坊さん(弘法大師)が托鉢にきたが、その鉄鉢を叩き割り、冷たく追い払った。ところか翌日から、8人の子供が病気で次々と死んでしまう。夢枕の「すぺては、おまえの悪業の報いだ。これからは情深い人間になるように」という声に、はっと飛び起き、自分の罪の深さに気がついて、四国巡礼の旅に出る。やかて阿波の焼山寺の門前で行き倒れたとき、「これまでの功徳によって、今までの罪はすべて消え去った。よくやった」という声に薄目を開けると、お大師さんが立っている。「次の世では、世のため人のために尽くす人間になりたい」と言い遺す三郎の左手に、お大師さんは小石を握らせて最後を看とる。すると次の年、伊予の領主・河野家に、左手に衛門三郎という文字の刻まれた小石を握った男の子が生まれたのである。その子は15歳で家督を継ぎ、善政をほどこしたという。
 これは、松山市道後の石手寺に伝わる「衛門三郎略縁起」であり、彼こそ四国遍路の元祖ともなるわけだ。
                                          (つづく)