丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第27回〜 
《2002年11月掲載》



              恐怖からの解脱 〈1〉

    
   ☆友人の死

 私が、映画『人間革命』で戸田城聖(創価学会の2代目会長)の役を演じたとき、とんでもない間違いをしでかしたことがある。
 富士宮市までロケに出掛け、総本山大石寺(たいせきじ)の本堂前の石段の辺りで、重要なシーンを撮ろうとしたのだが、私はなんと「南無阿弥陀仏、ナムアミダブツー」とやってしまったのである。
 蒼くなって素っ飛んできたカメラマンに「南無妙法蓮華経ですよ、丹波さん!」と言われて、ようやく「あ、そうか」という次第。まさに冷や汗ものだが、それくらい宗教については無縁な男で、何も知らないということである。
 そんな私が、なぜ、死後の世界に関心をもち、いろいろと研究を始めるようになったのかというと、ある友人の死に出会ったからだった。
 病名は癌。
 苦しみ抜き、死ぬことを悟ると「死にたくない、死ぬのが恐い。助けてくれ!」と叫ぶようにまでなった。死の影におびえて、うわごとを言う。突然、怒ったり泣きだすこともあった。
 彼は、心が寛く、また勇気と決断力に富む、男らしい性格の持主であった。そして、「死とは熟睡と同じで、何も考えてない状態、つまり無なんですね」と言っていたものだ。ところかどうだ、迫り くる死を目前にしての、あの取り乱し方は…。この光景を目にして、私は心胆寒からしめられる思いだった。大人物といわれた彼ですら、死に直面すると、かくも動転するものなのかと。
 以来、私は「人をここまで恐れさせる死とは何なのか」を、深く考えるようになった。どのようにしたら見苦しい死に方をしないですむのか、を。
 自宅の書斎には、私の疑問に答えるべき東西の書物が堆(うずたか)く積まれ、映画のロケ地でも、暇さえあればぺ-ジを繰るのが常だった。「最近の丹波さん、ちょっとおかしいんじゃない?」。豪放磊落(ごうほうらいらく)をトレードマークにされていた私が、恩索にふけるサマは、はたから見ても異様に映ったことだろう。
 そして、その結果として得たものが、「あの世」の存在なのであった。


 そうこうしているうち、「日本の喜劇王」と呼ばれたエノケン(榎本健一)さんと話しているとき、私は不思議な体験をした。晩年に脱疽(だっそ)という病気にかかり、片脚の足首を切断する大手術を受けたエノケンさんは、それでも執念を燃やしつづけ、義足をつけ、舞台や映画に出演されていた。
 その頃のこと。部屋で雑談をしていたら、エノケンさんが急に顔をしかめる。
「どうしたのですか?」
「疼(うず)くんだよ。この足の親指が……」  
 エノケンさんが指した「この足」とは、手術で切り落とされたほうの足だった。肉体的には消滅してしまって、現に存在しない足の親指が痛むとは……、不思議なこともあるものだ。
 そうなのだ! と私は思った。
「親指」という肉体は消滅しているが、「親指の痛み」は確固としてある。人間の欲望と魂の関係は、ちょうどこのようなものなのではないだろうか。死ぬと、人間の肉体は消滅する。しかし、霊魂は 生きつづけるのだ──。
 人間の霊魂は本来、赤子のように純粋無垢なものだが、肉体のなかに閉じこめられることによって、肉体のもつ欲望=煩悩に染めあげられ、その欲望や煩悩を本来のものであるかのように錯覚してし まう。そして、死によって霊魂が肉体から脱け出した後も、霊魂はまだ錯覚を捨てきれず(肉体か消滅してしまっているのに)、悩みや痛みという煩悩につきまとわれる。その肉体の錯覚から目醒めることによって、霊魂は本来の姿に立ち返るのだ。



   ☆死を忘れた宗教

 私の母が亡くなったときのことである。
 すぐ脇に70歳ぐらいの、仏さまのような穏やかな表情の和尚さんが座っていた。母に引導を渡しに来てくれたのである。もし、霊魂を認めないのなら、お葬式で引導を渡す必要はない。そう思って、遺体の前で親戚縁者に〃死後の世界〃のことを話していた私は、和尚さんに「そうですな」と相槌を求めてみた。ところが、和尚さんは「ほう、そうなんですか」と言うではないか。さらに和尚さんは、こう言った。
「私たち坊主は、じつのところ、あの世のことなど何も知らないのですよ」
 また私が、高野山で講演をしたときのこと。お坊さんを含め大勢の入びとを前に話をした後で、質問を求めたのだが、みんな黙っているばかりで誰一人として質間しようとしない。お坊さんたちといえども、やはり〃死後の世界〃のことは、よく知らないのである。
 難しい教学の研究や考察に終始したり、葬式仏教が主になってしまっている現状では、死後の世界への観念、さらに「生きがい」に対する「死にがい」を一般に確立させることなどは、思いもよらないことなのかもしれない。
 まさしく、「唄を忘れたカナリア」ではないが、宗教が「死を忘れている」ことを、私自身こうして体験してきたのだが、宗教というのは、霊界が大前提になければ成り立たないのではないだろうか。死ねば、すべてが水泡に帰し、どこへ行くかもわからないなどという説法で人びとが満足するはずがないし、生きる意欲を湧き立たせるはずもない。



  ☆心霊蔑視の裏側


「透視」や「念写」の研究で世界にその名を知られている福来友吉博士が、非科学的な超能力の研究をしていると非難され、大正2年に東京帝国大学助教授の職を辞さなければならなくなってから、さまざまな超常現象・心霊現象などを研究することが、タブー視されてきた。
 しかし、アメリカやヨーロッパでは多くの科学者たちが、膨大な国家予算の補助を受けながら、そうした研究に没頭している。それなのに日本では、どうして科学者たちが心霊研究に取り組まないのか?
 ごく個人的な見解だが、日本人が戦後、科学を信仰にも近い態度で特別視するようになったのは、戦前の天皇を中心とし、家庭にあっては家父長と祖先を重んじるという精神的な支えが崩壌し、他にすがるものがなくなったからではないだろうか。
 それと、心霊研究を白眼視する裏には、死ぬことをあまり考えたくないという態度、つまり「死への恐怖」があると思われる。日本の飛行機に、四という数字の席がなかったりするのも、死を思い浮かべるからだろう。
 生ある者は否応なく死を迎える──という厳然たる事実を知っていながら、人はみな死ぬことを怖れる。草木あるいは動物のように従容として死を受け入れられないのは、さまざまな欲望=執着によって、雁字がらめになっているためであろう。したがって、金銭や地位のある人ほど未練や執着がひどく、文化人であれぱあるほど、死に対する恐怖も大きいのである。
 日本人の多くは、自分が死を迎えることに対して、心の準備ができていない。早い話が、不治の病と考えられている癌の宣告である。欧米では、癌愚者が余命半年と診断されると、医師はその事実を伝える。日本では、なかなか本人に教えようとはしない。なぜか? あまりにも、取り乱す人が多いからだ。

「死への準備教育」を提唱している、上智大学のアルフォンス・デーケン教授が、昭和63年に、ニェーヨークのホスピス(末期医療を行なう病院)を訪ねてインタビューしたところ、ケアを受けている末期ガン・エイズの患者たちの心の支えは、もちろん信仰(神に愛されているという意織)もそうだが、永遠の生命への希望と、いずれ天国で家族と再会できる望みだったという。
 ところが日本の場合は、死後の生命を心底から信じている人が、外国とくらべると少ない。そのことが、癌の告知をためらわざるをえない理由の1つなのである。永遠の生命が信じられない人にとって、癌と告げられることは、まさに完全な「死の宣告」になってしまうのだ。
 なぜ現代の日本人は、死を恐れるようになったのだろう。
 多くの人びとは「死んで花実か咲くものか」と考え、「生きているうちに好い目をみなくちゃ」と思っている。だからこそ、ひたすら現世利益を願う。当然のことながら、物質的な繁栄の基礎になっている「科学」に絶大な信頼を寄せることになってしまうわけである。「死んだらそれまで」の思想は、「死ぬことを考えたくない」傾向を生み、その結果として、いざ死に直面すると周章狼狽してしまうのだ。

 現代のこうした風潮のなかで、「霊」の問題に対して柔軟な考え方をもつ人びとが増えてきたことは、まことに好ましく喜ばずにはいられない。つい最近も、福井県民の意識調査では「死後の生命」を8%が信じ、20%が信じる傾向と、肯定派は3割近くに及んでいる。ちなみに否定派25%である(ないと確信するが15%、疑わしいが10%)。とくに若い人ぴとほど「死後の世界」を強く願っているのだ(平成6年6月12日、福井新聞より)。

 霊界はどこまでも広く深く、その研究に限りはない。科学が進歩すればするほど、霊界の存在が明らかになってくると、私は確信している。しかし、それは5年後かもしれないし、50年後になるかもしれない。
 それに私は、霊魂は存在する、神は存在する等々といったことを、学問的に検証するとを目指しているわけではない。実感的に知ることこそか大切なのである。ちょうど、宇宙飛行士たちが「神の存在を実感した」のと同じように。
 現代の先端科学技術の粋(すい)を集めた字宙船で宇宙を旅したパイロットの多くか、神秘的な体験をし、神の存在を確信するようになったのだ。アポロ15号で月面着陸に成功したジム・アーウィンは、コロラド・スプリングスにハイ・フライト財団をつくり、福音伝道者として、世界中を駆けめぐって「神の存在を信じなさい」と説いた。この財団には、アポロ16号のチャールズ・デューク、15号のアルフレッド・ワーデン、スカイラブ4号のウィリアム・ボーグの3人の元宇宙飛行土も参加している。

 それだけではない。「人間は神と一体だということが、一瞬わかる」「あらゆる宗教、あらゆる思想に偏見なく接するようになった」と語った、アポロ14号のエド・ミッチェルも、宇宙からの帰還後、ESP(超能力)研究所を設立してしまったのだ。
 宇宙飛行士たちは、あの広大な宇宙で「語りかければ、すぐ答えてくれる」 「手をのぱせぱ、神の顔に手が触れると思わせる近さ」に、神の存在を感じたのだった(アーウィン飛行士の言葉)。強靱な肉体、科学的な判断力をもつ頭脳と、突然事態にも動じない精神カを兼ね備えた、あの宇宙飛行士たちが、である。これらは、立花隆著『宇宙からの帰還』(中公文庫)という本のなかで報告されていることである。


 私にしても、頭から「死後の世界」の実在を信じたわけではない。私なりの科学性をもって研究した結果、そう考えるよりほかない、と思い至ったのである。そして今は神(宗教的な神ではなく、宇宙の秩序とする)を信じ、神に感謝しながら生きている。そのおかげで、人生が充実しているのだと思っている。
 大切なことは、死を恐れず、霊魂不減の確信をつかむことである。それが、あなたの「この世」での生活を充実させてくれることは、まちがいない。
 これから、私の一生、貴方の一生が「この世だけで終ってしまうものではない」ことを、さまざまな角度から実証してみたい。
                                           (つづく)