丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第24回〜 丹波哲郎に聞く 1
《2002年8月掲載》



   今回は、インターネットやお便りで届いている、丹波哲郎への質問を幾つか
  取り上げて、直接解答をもらいました。


  ☆ ☆ 新刊『エンサイクロペディア大霊界』の出版について ☆ ☆

    
  ―― 先ず、エンサイクロペディアと言うのは辞典という意味があるようですが、
      霊界辞典と言う事なんでしょうか。  




丹波
 正にその通り。霊界に関する事だけです。


――これは、すなお集大成でもありますが、この時期(すなお発刊から16年)に出すと言う事は何か理由があっての事でしょうか。

丹波 動機は去年の日本アカデミーショーの受賞会場で、大映映画、つまり徳間書店の社長から霊界に関する本を、もう一冊書いてくれと言う申し出があり、それが動機と言えます。
 それで承知しましたと言う事で始まった訳ですが、1冊ではとても書ききれない。私の40年間の霊界研究を全部掲載するとなると、約7冊位はかかる…7というのはラッキーナンバーなんだよ、でもそれに引っかけた7ではなく、私の感と言うか閃きと言うか、私が研究した事と言うよりも、世界中で研究された総合です。
 取り上げた研究内容では、日本でも宗教家は意外と少ないんです。学者ではなんと言っても帝大(帝国大学・東大の前身)出身で、海軍経理学校で英語の教官をしていた浅野和三郎をはじめ、各分野における学者に限らず様々な方の研究を網羅しました。しかし、外国における研究の方が圧倒的に多いので、原文を読んで掲載する事は時間的に不可能なので、翻訳された物を活用しました。
 つまり、霊界に関する共通点を私が勝手にピックアップ(拾い上げ)致します。
 研究対象の中で、霊界通信と言っても様々な物がありますが、その中でも共通点を列挙すると、たちまちに一冊分になってしまう。
 あの世の研究では、視てきました、聞いて来ましたと言う事や、生まれつき感覚の鋭い人、霊界と波長の合う人が経験した情報を、抜き取ると言う方法があります。それでも膨大な量になり実は7冊で終わらないかも知れないと言うのが、現在の感想です。


 ――では「月の巻」となっていますが、月に意味はあるのでしょうか。

丹波 何にも有りません。あの世と云うのは一万年も一日。とにかく日が変わらないと考えられてきました。処が時間が経っていると言う事が判ってきた様です。百年位の研究の中ではよく分からなかったのですが、先ず、空の色が変わっていくと言う事で、日にちが経っているんだなと言うことが判る様です。だいたい夜が来ないから永遠に一日と言う事も出来る訳です。
 空が紫色、それを月曜日と考えるなら次は火曜日、紫の一面の空に赤い線が一線スーと入って来る。その赤い線が線では無く拡がって来る。線ではなく扉が拡がって行く様に紫がどんどん赤に変化して行く。そういうわけで、七色の空が荘厳に拡がって行くと言う事が、判りだしてきたのです。
 それでこちらが勝手にそれを月の巻、火の巻、水の巻と言う様に現したわけで、霊界がその様に変わっていくと言う事はこれも事実の様です。それを本に転用したと言う事です。


  ☆ ☆ 霊界研究と映画について ☆ ☆

  ―― 丹波先生は「霊界研究は他の科学研究と違って、研究当事者が亡くなると
     足踏みしてしまうことがある」と仰っていますが、霊界研究という点では現在、
     丹波先生は満足されていますか。  

丹波 確かに足踏みは有るでしょう。しかし、それ以上の日進月歩と言える位に大変な進歩があります。霊界に対する興味を持っている者の数は怒濤の如く増えている。私は映画人だから映画と言う事で例を取れば、昔はお化けもの、怪談じみたもの、代表では四谷怪談とかだが、そう言う様なものが霊の世界、あの世だとされてきた。
 しかし霊の世界はそうではないんです。怪談映画ではなく、アメリカ映画「奇蹟の輝き」等の様に大変な予算をかけた霊界映画が出来たと言うのは、必ずみんな見てくれると確信しているから。霊界の実情、荘厳さ、輝き、そして自殺者の凄惨な状況を実に良く表現している。つまりあの映画は教訓的にもなっている。 霊界ものに、そこまで投資する決意をさせる土台と言うのは、大勢の人が見てくれて、それだけ真剣に興味を持って、霊界事情を知ろうとする熱意が有ると感じているからでしょう。


  ―― 今映画のお話が出たのですが、外国の映画界では多少の違いはあります
     が、前向きな霊界事情に合わせた霊界映画が制作されています。
     しかし日本ではまだ霊と言えばホラー(恐怖)映画と扱われてしまいますが、
     その現状はどう思われますか。  

丹波 実に下らない。そんなものは作らない方が良い。テレビでも霊界に関することを紹介しているが、娯楽番組として扱っている。実に怪しからん話で、そんなものを作り続ける制作者はろくな者ではない。
 霊界について研究した者以外では、霊界事情の映画を作ってはならない。何故かと言うと間違って作ってしまうから。唯々面白おかしく、客さえ呼び込めれば良いと言う様な、刺激的な画像を寄せ集めた勝手なものになってしまう。だから知らない者はやってはならないんです。


  ―― 先日一般の方で「大霊界3・勝五郎の再生」をご覧になった方から、大変
      勉強になった、次の作品はいつですか等の問い合わせがありましたが、
      映画大霊界や勝五郎の再生記(大霊界3)等を制作した理由、当時の経
      緯などお話頂けますか。


丹波 映画は、正に霊界事情が世に出るべき時期だったのでしょう。そして大ヒットしたんだが、儲けよう等と思っても見なかった。
 勝五郎に関しては、作っている最中に、当時の松竹の社長の奥山氏と廊下で出合ったんだ。そこで「丹波さん、霊界もので勝五郎の死とか言う、テレビ用みたいな映画を撮っている様だが、あれは何のため?」と映画会社の社長から、その撮影所で聞かれたんだ。非常に情けない話。
 勝五郎は講演の前座として作ったものです。私が講演で喋ろうとする霊界事情は、私の言葉だけでは足りないから、会場で見てもらうための実例を映像化した訳です。
 短編だけど、小泉八雲が英文で書いて世界中で有名になった実話。彼が採用したと言うのは、当然それ以前に国内で有名になっていたからです。なんと当時の天皇、孝明天皇(第121代・次は明治天皇)のお耳にまで達している。
 勝五郎はある日突然「お姉ちゃんは生まれる前は誰だったの。おいらは…」と前世の事がらを言って、それが事実だと言う事になり大騒ぎになりました。その顛末が記録に残っている訳で、「勝五郎の再生記」は五千万かけたわけだから、それに見合うだけの収益がなければいけない訳だけれど、私の場合は霊界の宣伝使だから、一人でも多くの人に真実を、つまり死んで肉体が無くなったならば、古い車から運転手が降りるのと同じように、運転手即ち魂、即ち貴方自身は自分の体から降りれば良い。そして降りたところは、この様に素晴らしい状況が展開されて居るんだと言う事を、先ず目で見せておいて、講演をしたら効果的ではないかと言う事で作ったもです。と質問に答えたんだが、当時の奥山社長は唖然としていたね。

  ※小泉八雲―イギリス人 ラフカディオ・ハーンのこと。
          文学者・明治二十三年来日 「怪談」「霊の日本」等を発表。


  ☆ ☆ 再生について ☆ ☆

  ―― 勝五郎の再生は、類魂、部分再生と言う事を考えると、前世の記憶が全
      て合っていたりして、部分と言うよりも全部という気がするのですが…。

丹波 部分再生というものに対する意味の取り違えだ。部分再生というのは今、君がここに存在している訳だが、そっくり前の君が、現在の君という人物になっている訳ではないと言う事です。
 前の人生も同じこと。類魂と言うのは、何から何までそっくりさん。例えば五本の指は兄弟どころじゃない、血液も全部一緒、共有し合っているが各指自身の個性がある。親指は親指の役目、小指は小指の使い方がある。ところが同じ血液、DNA(遺伝子情報)全部一緒。大きな手術の時は、自分の一部を切り取って破損した個所にはめ込んでも成立する位なんです。同じ人間の一部だからです。それと同じ位、霊界では各集団を形成している数は、例えば五百人、五千人、五万人と色々ありますが、これは一つのものです。一つだから、一人が考えたことは、あとの全員も同じことを考える。
 人間界に誕生する時は、五万人が一度に誕生する必要はない。代表選手一人が出ていって、残りのものの欠陥、悪いところ等を人間界の混乱、苦しみ、生活しにくい事等を我慢して、向上しようとして出て来る訳だから、つまり、悪いところは切り取って、良いところを身に付けて帰ろうと言う訳だから、出て来るときは部分的なんです。


  ―― 再生の時には記憶が消されて出て来るという情報、研究成果が有りますが、
      勝五郎の様に前世を鮮明に憶えていると言う事は、
      何か理由があるのでしょうか。

丹波 意味が有ってのことだね。でも、実は殆どの者は憶えている。それは口が利けるようになるまで。お腹の中の赤ん坊は、自分の人生、過去と未来を知っているんです。オギャーと産まれた時は憶えている訳で、ところが、口が利けるようになるまでには忘れさせてくれるんです。
 前世泥棒であった場合には、前世ばかり気になって修行の足しにならないんだ。修行の邪魔になる。これは前世で良い思いをした場合も同じで、現世で悪い境遇、つまり、生まれ変わって貧乏な家庭で育つことになった場合、過去の記憶があると不平不満だらけとなる。綺麗に忘れると言う事、修行のためにはそれが必要な事なのです。
 でも、記憶が残っている場合があって、貧乏と言えども何となく毅然としている、逆に金持ちに産まれているのに手癖が悪かったりするわけです。


  ―― 判りました、しかし何となくどころか、完全に憶えていると言うのは、
     何か特別の理由が考えられるのでしょうか。

丹波 フォックス家事件と同じ様なことだ。


  ―― 歴史にその様なことを知らしめる、結果的に歴史に残る事になると言う、
      お役目を背負った者と言うように思った方が…。

丹波 思った方が…ではなく、思わなくちゃいけないし、それが正しい。
 しかし、類魂、再生に関してはまだ研究の途上です。今、判りかけていることは霊界全体からしてみたら、ごく僅かかも知れません。
 でもこれまでの研究から、肉体を脱ぎ捨て類魂の世界に帰った場合に、自分の修行に対して良い報告が出来る様に努力することは大切で、その報告の中で類魂にとって役にたつことは大歓迎され、採用される事は確かでしょう。

                                      《 つづく 》