丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

〜第20回〜 丹波哲郎・O.S氏に質問 【 6 】
《2002年4月掲載》



    ※丹波哲郎とO.S氏のジョイント講演会での様子を連載しています。

      今月は 
「教育・自殺・安楽死」 などについてです。



     ●質問1 教育とは、誰が誰のためにするものですか?

         教育とは知識を伝統的に伝える事 丹波哲郎


丹波 教育というのは、当然その国民、その環境の知識というものを、伝統的に伝えるということでしょう。
 即ち、日本では現在、一番危うい状態がさらけ出されているのではないでしょうか?  例えば若者のメイク・茶髪というものに対して、段々慣用になってきますよね。ちょっと前までは、そういう者は、社員に採用しなかった。
 これほど日本の国情にあっていないことはありません。日本の危うい状態が露呈されている一例です。
 私のヨーロッパ系の友人たちは、驚きを通りこし、軽蔑を通りこし、「もう日本人は判らない」と言い出しています。


      黄色い肌に、黄色い髪の毛が似合うはずがない 《丹波哲郎》


丹波 だから、「教育」というものは、あくまで上の者が下の者に対して、年とっている者が若い者に対してする教育であって、それはやはり、その国・その環境・その歴史をしっかりと伝えていくのが、教育の真髄ではないかと思いますね。


O.S氏  私の考えと、丹波先生の考えは同じなんですけども、みる角度によって捉え方が変わるのですね。
 今までの教育というのを歴史的に眺めてみます。
 まず、明治になってから、現在の教育制度ができたわけですね。それまでは、寺子屋というような教育システムが、日本の国の中にあったわけです。今は、学校教育を例にとったはなしです。
 丹波先生が言われたのは、国民というものは、こうあらねばならないという常識の教育でした。そして、学問の教育、知識をつめるというのと二通りあるのです。
 
 学問の方から行きますと、明治になって初めて国民が平等に教育をうけることができるように教育制度をつくりました。つくった根底は何であったでしょう?
 それまで、日本は外国と取引をあまりしてなかったのですね。
 鎖国をしていました。開国して外国からいろんな方が来たり、日本からいろんな方が外国へ行きますと、いつも平和でいるということは希望であって、現実は外国との戦争とかが起こったりします。その時、教育レベルがものをいうわけですね。教育レベルが高い国民ほど、軍隊が強いわけです。
 その為に軍隊教育(戦争ができる為の国民をつくる)があるのです。
 そうなるとまず、国民がどれくらい勉強ができたかチェックする必要があり、試験ができました。
 このように今までの教育は、国民のための教育じゃなくて、国のための教育でした。


    教育とは「国」のためではなく「国民」のためにあるもの 《O.S.氏》

         
O.S氏  ところが、これからは国の為の教育から、国民一人ひとりの為の教育へと移行していくと思います。
 そうなるとまず試験が要らなくなります。入学試験、中間試験、学期末試験、卒業試験など、全ての試験が必要なくなり、自分が勉強したいときに、好きな学校へ、好きな時に勉強しに行くというような、各個人のレベルで教育を、自発的に受けていく時代に向かっていきます。
 今までは、こうでなくてならないという一つの枠にはめて教育を行ってきたのですが、これからはいろんな方が一人ひとり持っている「天分」をどこまでのばせるかということです。自分にとって必要なときに必要な勉強をしていくように学校制度が動いていくだろうと思います。
 そのかわり、どこの学校を出たという卒業証明書もくれませんし、これからは、自分は何ができるのかという時代へと向かって行くと思います。
 今、丹波先生がおっしゃったように、外国人からみて、日本の若者は狂っていると言われてしまう部分は確かにあるのですが、今だからです。
 後しばらく経つと、茶色の髪のお子さんや、その辺で悪いことをしている若者は、ちゃんと自分でまっすぐ走る時代が来ますので、そう心配したことはないと思います。



   ●質問2 死の直後に現れる光景が様々なのはどうしてでしょうか?

     光に「人の為にどのくらい生きたか」を質問される 丹波哲郎


丹波 死の直後の状況というのは、そんなにも違わないんですよ。
 客観的・主観的にみたらそれぞれ違ったものとなります。

 まず、客観的には次のようになります。
 足の先から空っぽになって行くような状態、中身が頭の方へ縮み上がってきていて、頭から煙のように出ていくのが一般のようですね。

 主観的にみますと、自分の体が筒状・煙突状に思えて、それがある程度、らせん状を描きながら悲鳴をあげながら、回転状態で上に昇っていく。その途中に寒冷状態に遭遇するものも何人かいるようです。とてつもなく寒いそうです。だいたいマイナス100度くらいとも言われています。とにかくとてつもない寒さをわずか何秒か体験するそうです。
 すると上の方に光る穴のようなものを感じて、はい上がるのではなく、吹き上げられるようにスポッと音をたてるように飛び出します。その途端安堵感。その安堵感たるや、生まれてこの方、これ以上の安堵感はないというような体験をし、光との対話になります。  光は、言葉ではなく質問してきます。

 「この世で人の為につくしたことを列挙せよ」  

というようなことを言ってくるのです。
 その際、胸を張って「一つこれ……、2つこれ……、3つこれ……。とすぐさま答えられるものは幸せ。
 何にも答えられないものはすごすごと……。
 このような様子が、死直後の様子なのです。



           死直後は死の自覚がない 丹波哲郎


丹波 そして、万民共通なのは、死んだことが判らない。みなさん夢をみる時に、ここからは夢だという境界線がないでしょう。
 いつの間にやら夢のドアをあけて中に入っている。いかにおかしな夢をみていても、その時点で夢だと気が付く人はめったにいない。
 めったにいないどころか、ほとんどいないと思いますね。
 すなわち、「死」と「夢」とは全く同じだと思って下さい。
 死んだことに気が付かない。
 その状態が向こうに行った最初の状態なんです。



      前後左右上下360度 全部見えたら死んでいる 丹波哲郎


丹波
 みなさんが一番大事なのは、まずまっすぐ立ってみて前後左右上下360度いっぺんにみえたなら「ハハー、私は死んでいるのだなあ」と自覚を持って下さい。
 死の自覚がないと、どうにもならない。だから葬式が大事なのは、自分が死んでいるのだと自分で納得するためだけに大事なのです。もちろん家族のものが立派な葬式を出して、故人のこの世の業績を知って頂くことも大事なことです。
 とにかく一番大事なのは、もはやこの世の住人ではないことを知るけじめです。



       ●質問3 自殺をしたらどうなるのですか?
       ●質問4 安楽死は許されるのですか?

         自殺は絶対駄目 安楽死は賛成 丹波哲郎

丹波 自殺というのは駅伝だと思って下さい。
 何で自殺がいけないのか?


       自分を殺すのは、人を殺すよりもいけない 丹波哲郎

丹波 人間界の駅伝は、5〜6人ですけれど、霊界の駅伝というのは、何百人がタスキを待っているのです。順繰りにタスキを受け取る準備をしています。
 ところが、そのタスキをかけたまま人間界で挫折してしまうと、あと待っているものが全部将棋倒しになりますね。だから自殺というのは、自分一人を殺すのではなく、霊界で待機している何百というものを殺してしまうことになるのです。

 自殺だけは、絶対に駄目です。

 理由があったらいいんですよ。理由がない自殺、すなわち自分のためだけに考えた自殺はだめです。
 例に取りますと特攻隊というのは、自殺じゃありませんね。国の為に自分が犠牲になったんだから……。またあるいは城兵を助けるために城主が割腹するというのは、人の為にやったことですので、自殺とは違います。
 人の為にやったことは、自殺じゃない。そういうことで自殺ということは長い間苦しみますね。

 次に。安楽死についてです。
 僕は個人的には賛成です。
 何年か前、日本テレビで当時ホスピスが日本で3ヶ所しかなかった時のことです。そのホスピスにテレビカメラが入りました。対象は、50歳代の小学校の先生の女性。そして、もう一人は同年輩の男性です。
 まず、小学校の先生に質問です。その質問がえげつないんです。
「あと余命3ヶ月だそうですけれど、怖くありませんか」
女性は「ハハハハ……」とまず笑います。
根が俳優ですから、本当に笑っているのか、つくって笑っているのかやや判ります。
或いは、90%わかるかな?
 その女性は、心から笑っているように見えました。
「何で怖くないんですか?」と次の質問。
「向こうへ行ったら、母が待っています。私を大変かわいがってくれた兄が待っています」と彼女のアンサー。
 その間、本当の笑顔だけ……。
 そして、今度 は男性の方、彼はテレビの部品をつくっている会社の人らしい。そばには、20歳前後にみえる娘と息子。年がら年中立ち上がっては顔を洗っている。すなわち泣いているんです。そこまでカメラは追いかけています。女房殿の方は、下を向いたっきりでおでこしか写っていない。その男は、胸を張って毅然としている。
スタッフが同じ質問「あと何ヶ月だそうですね……」
男性「ハイ」
スタッフ「どうして怖くないんですか?」
男性「研究しましたから、向こうのことについて知識を充分持ちましたから……」というアンサー。
 最後に院長が出てきました。
院長「お二人の死に顔をとっておけばよかった……」
(院長のインタビュー時にはすでにお二人は亡くなっていた)
実にいい顔をしているということで、そのテレビは終わっている。
 ですから、みなさんね、死というのは、向こうのことを知れば安らかに逝けるんですね。
 ところで、みなさん安楽死というのは、苦痛がないということですね。断末魔の苦しみというほど、あんな偽物はないようですな。あれは、見かけだけのようですね。
 みなさん死に至るには、4段階あるそうですが、そこまではある程度苦しみはあるそうです。ホスピスに入るためには資格があります。6ヶ月の寿命だと本人が知っているということです。抗ガン剤などは一切うちません。ただ痛みが出たら痛み止めをうちます。  そして、心静かに余生を楽しみながら終わるのです。

 死とは、怖いものでも何でもないのです。

 ならば安楽死はそう言う意味で賛成です。  私もそう言う状況になったら是非とも安楽死させてほしいですね。
 だから賛成です。



        死とは、東京から大阪へ引っ越すようなもの O.S.氏


O.S.氏 今までとは違って、あの世のことが段々解ってきました。
 で、昔は「死ぬ」ということがとっても大変な出来事だとこう思っていましたが、最近では科学的に証明できる部分が一杯あるんですね。そういう事柄をずっと詰めていきますと、結局、東京に住んでいる者が、大阪に引っ越すようなものなんです。
 大阪に行っても人生があるわけで、東京にいても当然人生があります。大阪と東京では、風景とか生活習慣などが少しばかり違うだけで、ほとんどが同じです。
 違うところも確かにありますが、あの世もこの世も何らかわりがないのです。
 東京と大阪ですから、すぐに会うことは出来ませんが、電話をかければ、すぐに話が出来ます。そうすると大阪の情景が良くわかってくるでしょう。同じようにあの世の情景も、電話のようなもので、伝えられているのです。

丹波 O.S.氏、大勢の人たちが霊界電話のようなもので、むこうの者と話し合っているというケ−スは随分あるそうですね。

    (来月はこの霊界電話の話題から御紹介します。お楽しみに!!)

                     ※ 来週でこのシリーズは最終回となります。