丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

               〜第13回〜 ある講演会から《3》
                   《2001年9月掲載》


      ※今月も、ある講演会の内容をご紹介します。
               口語調で実に臨場感のある内容です。



 ●霊界はこんなところ

 人間は元々霊界に属する霊魂と自然界に属する肉体から出来ていると言う事は、これは言うまでもありませんね。ですから肉体を捨てて精霊界に逝くと、その死者というのは次第に霊そのものになっていきます。
 しかし、死者というのは、初めの頃は人間界に生きていたときの肉体的感覚の残り滓や諸々の人間界の記憶を持っていますけれども、それらは段々日々薄れていくんですね。
 したがって元来何百年、何千年と過ごしてきた霊界の己の住みかが強烈に蘇って来るんですね。更に人間界に生きていた時に身についていた道徳、礼儀、習慣及びそれらを取り繕っていたおもわくというものは霊界では全く不要な邪魔者として扱われてしまう。
 したがって、自分を偽らず、本性を洗い出されて剥き出しにされた時に思いもかけぬ瞬間が、予告も無しにやって来るのです。だから、精霊界での最後の行事というのがあります。最後の行事というのは、それこそ心臓に何か突き刺さるほどの驚き、喚いて逃げ廻るでしょうね皆さんは…。


 ●霊界の入口

 何を言うのかというと、いきなり、盆地が……。遙か遙か遠くの何万メートルかの山並みが、いきなりウワーッと迫って来るんです。目の前でバーンと割れるんですよ。もう、いきなり割れる。巨大な山脈が恐ろしい音を立てて、真一文字に天も崩れよとばかりに二つに裂ける…。まァその大音響たるや最早死者達は唖然として恐怖で凍りついて、暫くはまあ放心状態でしょう。
 ところが違う、ところが、彼等は巨大な山並みの裂け目をまるで夢遊病者の様にフラフラと吸い込まれて行くんですね。その有様はちょうど、遙かはるか遠く霊界の中心部から誰かが何か紐で引っ張っているんじゃないかと思われるように、たぐり寄せられるようにその山の狭間を入って行くんですね。これは西洋人も東洋人も大同小異のようです。満々と湛えた、対岸も見えないほどの大河の畔にでます。彼岸という言葉がある通り、霊界の中心部というのはこの水縁の向こうにあるのですね。


 ●三途の川の向こう側

 さて、この広々としたまるで海のように見える大河を前にして死んだ者達、死者達はそれぞれ人間界から持ち越してきた余分なもの、即ち憾み妬み嫉み憎しみ嫉妬と言ったような、人間界の汚れた念を篩い落とさないと渡れない。全部篩い落とされる訳はないんだけれども、今も言うように人間というのは善と悪とを必ず併せて持っている。
 即ち善の方がパーセンテージがチョッと多いともう渡れるんだ。悪のパーセンテージが多い…、悪というのは即ち、憾み妬み憎しみ嫉妬そう言うような人間界の汚れた念ですね。
 だから、我々は当然の事ながら人間界で死を迎える前にこういった、妬み憾み嫉み憎しみ嫉妬と言う様な感情を振り落として、明るく素直にあたたかい心を生きている今、持っていれば何の事はない、何の事はない。ところが一般の人達はそんな事は知らないから、それぞれそう言うものを持ち越して、この三途の川の川岸まで来てしまっているんだ。それで今、目の前の三途の川を前にして改めてそれがもう大変な事だと納得します。
 何となれば、これらの念が邪魔になって、どうしようもない重りとなって、渡れないんだ。その結果長い間、只々その水縁を行ったり来たり行ったり来たりしているんだね。
 それで、とうとう渡れないもんだから、しょうがないから自分の行きやすいコースへ、コースへと行ってしまうんだ。そこが地獄への近道だとも気が付かずに。


 ●空飛ぶ死者

 さて、一般の死者達。即ち善と悪が五分五分、または善がチョッと上回っている人達。更に明るく素直であたたかい心を持ち続けていた人達なら文句無いねー、そういう人たちは何かの力に手繰り寄せられたように、それでも心細げに水の中に入って行くんだ。
 ところが沈まないんだ。何と水の上を歩いて行けるんだ。これには驚いてしまうんだ。この不思議さに段々調子づいて来るんだ。そしてフッと気が付いた時には、なんとその水の上を飛んでいるんだ。それも大変な速さで。
 やがて辺りが段々赤くなってきます。行く手の空も海も何もかも赤くなって来るんだ。段々真っ赤になって来るんだ。そして目の前に、或いは目の下に展開されている状況、情景というのは刻々変化して行きます。そう言うものに目を奪われて自分が死んだ人間だということはトンと忘れてしまっている。
 冷静に考えれば生きた人間が空を飛べる訳がないじゃない!。ところがそれさえも気が付かぬほど気が動転してしまっているんだ、最早。
 彼岸と呼ばれている霊界の真っ直中と言うのは、天も地も正に燃え上がるように真っ赤なんですね。その上何一つ動くものも有りません。
 身が縮み、息も継げないほどの荘厳さなんですね。一万メートルもの先に針が落ちても判るんじゃないかと思われるほどの静寂さなんです。恐るべき静けさ。
 だから、死んだ者はあまりの寂しさに身が竦んで、最早一歩も動けますまい。正に生命の片鱗だにもしない永遠の死の世界の様に見える……一見。
 ところがそうじゃないんだ。フト気が付きますと、遙か遙か遠く雲か山かと判断しかねる何万メートルかの遠い彼方から、柔らかーい光りが差し始める。で、奇妙なことにこの光りというのは、死者の胸の高さで輝いてそれ以上に上がらないんだ。こっちを向けばこっちに、あっちを向けばあっちにまるで幾つもの太陽が有るかの様に何の方向を向いても胸の正面に有る。尚かつ上に上がらない。


 ●「神様ー!」と絶叫

 死んだ人達は、この柔らかく差し込んで来る胸の高さにしか上がらない光に当てられると、次第次第に感激してくる。今迄息を呑む様な寂しさに身が竦んで動けない様な死者が、まるで溶けるように段々段々段々感激してくる。
 そして遂に迸る様な喜びと、溶けるような安心感で思わず絶叫するんです。何と?「神様ー」と。今迄ね、神様ってナアに、神様って食べられるカイ、なーんて言っていた不心得者が…神様と絶叫するんだ。
 その様な不心得者でも、もう一遍絶叫した…絶叫するまでも無いけれども神様に呼びかける瞬間は有りました、死ぬ前に。 死ぬ前…、もー助からン。覚悟した。もう何処から見ても自分は助からないと言う事が判った。周りの状況から言っても、自分自身の肉体的判断から言っても「あー、もう助からン」


 ●神様と取引

 この時に、必ず皆さん神様と取引をするね。
 どんな取引か?…
「死ぬのは判った、モー助けてくれとは言わン。その代わり神様、お願いが有る。一日、欲を言えば二日、もっと贅沢を言えば三日位、ひとつ精神的に肉体的に安楽な日が欲しい。そのために若し、そう言う事が出来るんだったならば、神様、私は昔こう言う様な事をしたと、悪事を白状しようじゃないか。即ち懺悔しようじゃないか」「こう言う所にこれこれの金を寄付しようじゃないか」「若し必要ならばこういう所にこう言う様な必要な建物を造ろうじゃないか」と言う神様と取引をするんだ。
 あるいは口に出して、或いは心の中で「神様」と呼びかける。必ずやるって、皆さん。いきなり死んでしまうのは別ですよ。でも、死を覚悟したものは必ずやる。二度目に言うのが、この霊界に佇んで本当にこのどう仕様も無い時にパーと照らされた時。
 これはもう思いっきり叫ぶようだ、神様と。


 ●お迎えが登場

 その時ですよ、あたかもね、その神様と叫んだ死者の叫びに答えるかの様に、「丹波クーン」呼ばれるんだね。もう遙か遙か、とにかく見渡す限り何にも無い遙か遙かの彼方から呼ばれるんだ。「あれっ」と思った時にはもう既にここにに誰かが居るんだ。
 降って湧いた様に誰かが居るんです。だから死んだ者というのは、霊界に空間の観念が全く無いと言う事に初めてここで出会うんです。
 霊界には空間、時間と言うのがないね。だから呆然としている死者と対峙して、二人は暫く見つめ合っている。お互いに顔を顔を見つめ合っていれば何を思っているのか、何をしよう、どうしようこうしようと言うのが判るから…。やがて、何事か納得し合うと、まるで手を繋がんばかりに死者は喜々として歩き出すんだ。
 彼はもう何の不安も寂しさも無い。そしてまるで別人の様に優しく、胸の高さで輝いている太陽に向かって、胸を張って歩き出すね。


 ●霊界の太陽

 この霊界の太陽の実態については、まだ不明なところが沢山あるんですね。不思議な点ばかりが目立ちますけれども、霊界全体に対して霊流と言う特殊な、そして問答無用の絶対的に不可欠な流れを霊界の隅々まで流していると言う事は、事実ですね。それが生命の源になっていると言う事だけは…。


 ●霊界の村

 さて、霊界の真っ直中にある中心部というのは天国でも無ければ地獄でも無い。極平均的な死者達が逝く、或いは帰る故郷ですね。その広大無辺と言うより他には表現も仕様の無い、この驚嘆すべき壮大な眺めというのは、まず左手には富士山の十倍も有ろうかと思われるような山々が、峰を連ねて白く霞んでいる。中央には七色八色十色に輝く大海原が広がっているんです。静かに広がりを見せています。更にそれに接して右側というのは、赤っ茶けた砂漠状の岩山が所々に緑を這わせながらなだらかに伸びている。
 まるで行って来た様にお話しするね。事実行って来た。此処まで見て来て逐一報告している者が何と何十万と居る。
 死者はね、今、肉体を捨てて世に言う十万億土の長旅の果てにやっと帰り着こうとしているのは、正にこの村々のどれかに違いないんだ。我々は死ぬと霊界の我々の村に、今も言う様に十万億土を旅して帰って行くんだ。
 そこには、その村々には、一人残らず歓喜して村の人達が出迎えている。何と村人全員が彼に驚くほど似ている。顔が似ているだけじゃあないんだ。性格、性状(性情)、趣味嗜好ほとんど一緒。そう言って過言じゃない。正に各自が各自の分身そのもの。したがって村人同士の親密さというのは、これは人間界の親兄弟の比じゃない。仲間意識の強さなんて言うのは想像もつかないほど強い。
                                            つづく

                                        丹波哲郎

      ※ある講演会の内容をご紹介しました。来月はこの続きからです。