丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

               〜第12回〜 ある講演会から《2》
                   《2001年8月掲載》


      ※今月も、ある講演会の内容をご紹介します。
               口語調で実に臨場感のある内容です。



 ●死の自覚の重要性

 死んだらば何が一番いけないかというと、自分が死んでいる事が分からないことが最も不幸なんです。 とにかく自分の死を自覚できた人達、こういう人達は直ちにお迎えの霊人たちに囲まれて笑いさざめきつつ天高く上昇していきます。
 比較的すなおでありながらも、霊界のことについてただ知識がなかったという人達は、小首をかしげながらも繰り返し繰り返し親切に迎えに来る霊人達の説得に応じて昇天していきます。
最後まで死の自覚の出来なかった死者は、この世とあの世との境界線に放り出されて、いつまでもうろつく状態から脱出できずに、時折人間の目に触れる幽霊になってしまいます。
だから、すべての幽霊っていうのは、自分が幽霊だとは全く思っていないんです。 しかし、人間の方では幽霊が見えませんから、相手にしてくれない、だから仲間だけで集まって井戸端会議をしています。
その一番集まりやすい場所が、事故現場、その次にはどうしても墓場が彼らの集合所のようですね。宴会場所というか、待ち合わせ場所というか。


 ●お墓について

我々は死んだら墓場に入るんじゃない。我々はモグラの家族じゃないんです。地面の下に入って何がいいんですか。 第一、丹波の墓に丹波の祖先が入っているだったらまだいいけど、丹波の墓に田中が入ろうが、田中の墓に斉藤が入ろうが、そんなの勝手気ままだ。
何で死んで、あの世にそんな規則・決まりがあるんです。 どこに入ろうがそんなの勝手気ままだ。 あの世で交通巡査がいる訳じゃないんだ。 そんな決めなんて全くないって。 人間として考えるから、そんなことを考える。
ただお墓が大事なのは、生きている人達のため、一家団結のため。 今日はお祖父ちゃんの命日、お母さんの命日、 「ちょっとみんな行こうじゃないか、お墓詣りに行こうよ」っという一家団結のためには全く大事ですね。
それと同時にもう一つ、面会所。面会所なんです。 これは仏壇と一緒なんです。でもあった方がいいのは面会所だから。 たとえば、息子が今度東大に受かりました。うちの娘が嫁に行くことになった。と言いながら、お祖父ちゃんに報告しようと思うんだけども、茶の間でもって、おせんべいかじりながら、お茶のみながら「おじいちゃん息子が東大受かったぜ。娘が嫁にいくよ」なんていったってね。
あの世って言うのは念の世界だからねピーンといかないんです。 ところがお墓の前に行って、きれいにして手を合わせて 「おじいちゃーん、おばあちゃーん」 あるいは仏壇の前で、チーンとやって、 「おじいちゃーん、おばあちゃーん」チーンカーン とやると途端に来るんです。
 すなわち、面会所として大事なんです。


 ●霊界は別世界

さて、いよいよ懐かしい人間界の全てに別れを告げた死者の目に映っているのは、もはや人間界と全く別の世界、いうまでもなく霊界ですね。 だから、死者は迎えの霊人たちと肩を並べて歩いているんだけれど、そこはもはや人間界ではありませんから、彼らの目に映るのは霊界、人間界は目に映らない。
だから我々が見ていれば、大きな建物があったってその中をスイスイ通過してっちゃうね。 また、川があったって、橋があるわけじゃないのに川をドンドン渡ってってしまう。
そういうふうに、死者は勇躍して人間界のあらゆる障害物を煙のように通り抜けて、一直線に何処までもどこまでも歩いていきます。
死者は自分が、自分の幽体が、次第に上昇していることにまるで気が付かない。 お迎えの霊人達が死者を先ず連れて行くところは「精霊界」。
これは、仏教では中有界といっていますね。 ここは人間界と実によくにている。ただ違うところは、その建物がとてつもなく大きいようですね。ものによっては東京都くらいある大きな建物さえあるといわれていますから……。
 しかし、その中に入ってみるとその秩序の整然とした配置に、これはもう誰一人として戸惑う死者はおりません。
それ程霊界とは秩序そのものなんです。 だから、我々は死後、ただちに霊界のまっただ中に入るんではなくて、一旦人間界と霊界の中間地帯である精霊界で、素になるのを待つ。
 素になるというのは、死者の本性がまぎれもなくむき出しになることを言うんですね。 だから、ここ精霊界では、規則も罰則も何一つない。 何を考えようと、何をしようと自由気ままで勝手なんです。 従って思う存分にその性格・性情の欲するままに振る舞います。 当然悪は悪、善は善でたちまち、誰の目にもハッキリと、もうごまかしようもない己の真の姿が現れてきます。 そして、類は類で集まっていくんですね。 この中間地帯の霊界が現存するということは、動かし難い事実です。 天国行きも地獄行きも、この精霊界から出発しますからね。


 ●親しい者との再会

 さて、皆さんが死んでこの精霊界に来たときに、大変嬉しいことが待っています。
 それはね、先に死んだ両親・子供・姉妹に再会できることです。 必ず会う。
 しかし、その時に注意しなければならないことは、そして驚いてはいけないことは、おじいちゃんなりおばあちゃん、お父さんなりお母さん、死んだ時とだいぶ違う。どう違うか? えらい若返ってしまっている。あまりに若々しいために、あなた方はしばし呆然として、ちょっと口も利けないほど若々しい。
 確か80才で死んだのに、30才くらいしか見えない。
 ところが不思議と分かるんですね。
「おじいちゃんだ、おばあちゃんだ、お父さんだ、お母さんだ」と不思議に分かるんです。 さらに驚嘆する事が起こります。 目に見えなかった兄が、足のたたなかった妹が、片手のなかった弟が、五体完全な姿で元気ハツラツ飛び出してくる。 あの世に身体障害者ひとりもいない。
 だから、みなさんね、もし、皆さんの家族の中で車椅子の生活をしていらっしゃる人がおったら、言って下さいよ、必ず。 車椅子というのは、まあ自動で、自分で動かす人もあるだろうけれど、ほとんどの車椅子というのは後ろから押してくれるんです。 自分じゃどうにもならないんです。 いわんや一人で死ぬんです。 ただでさえ、自分が心細い、なんだか訳が分からないと思っているところへ、足が不自由なまんま行くという心細い状態。ところが、全く心配ない。死んだ途端に車椅子なんか全く必要がない。  


 ●閻魔の鏡(えんまのかがみ)

 次に、いかなる死者も通過しなければならない関門が、俗に言う閻魔の鏡ですね。
 しかしね、安心して下さいよ。この中国服なんか着てね、なんか怖いような顔をした閻魔様なんて、あれはマンガなんだからいるわけがない。 やさしい先輩霊が人間界での情状を細大漏らさず死者の頭上に再現してくれます。
 この行事の目的というのはね、本人を表彰したり処罰したりするためではなくて、本人の霊としての種類分けに正確を期するためなんですね。 死者自身は、人間界での行為想念の数々を克明にみせられるためにねぇ、 まるでまあビデオでもみるようにみせられるんですね。
 そのために、或いは喜び、或いは哀しみ、まあ時には、頭を抱えて恐れ入っちゃうようですね。 中には途中で逃げ出すような人たちもいてねぇ、大変な騒ぎになるようです。 まさに霊界の大行事と言っていいでしょうね。 ところがね、このように霊界では、死者が自分がむき出しにされて、何もかもが隠すことが出来ないんです。
 人間界においては、その劣悪な品性というを、金であるとか地位であるとか、そういうものでカバーできるかもしれませんけれども、死と共に、魂はその欠陥を醜くさらけ出されてしまうのが霊界なんです。
 だから人間界では嘘とハッタリで上手に世渡りしてきた人達も、その本性がそのまま顔に出てしまっていますから、これはどうあがいても駄目ですね。だから、類は類で否が応でも集まって来るんですね。
 霊界が何段階にも分かれてしまっているのもこのためなんですね。 何段階どころじゃない、何十段階にも霊界は分かれている。 ところがね、この閻魔の鏡なんていうのは、もう問題じゃないほど、難しい関門がすぐ後に控えているんですね。


 ●霊界の最大の難関

 この関門の後に……。
 それは、何か?
 セックスの問題。

 我々にとって基本的な本能っていうのは3つありますなぁ。

 1.自己保存欲
 2.食欲
 3.性欲

 永遠に死なないところにいるんだから、自己保存欲なんてないに決まっている。 食欲、ない。 死にますとね、飲まない、食べないが普通。 飲みますよ、時には食べますよ。 でもそれは、必要じゃない。お酒とかタバコのようなものに格下げされてしまいます。なくたっていいんです。 ところが、セックスは違う。性欲だけは……。
 どうして? 80才で死のうが90才であの世へ旅立とうが、刻々若くなってしまっているんです。 ほっとけば20才くらいになっちゃっている。
 その上で、人間界にいるときには、身体が悪かった。どこそこに障害があった。 しかし、この肉体をすてちゃって、幽体だけになったときには、新しいシャツだけになっているのと同じようなものだから、ルンルン気分ですよ。
 その上に肉体を持ってるときには五感、すなわち視覚・臭覚・味覚・聴覚・触覚といったようなものが、人間界にいたときの平均5倍鋭くなっている。 その上になんの束縛もない。あーしちゃーいけない、こーしちゃーいけない、なんにもない。 道徳も法律も影も形もない。 従って好き者同士は極めて簡単に相手を見つけてしまうんですね。 とめどもなく性欲の虜になっていきます。
 しかし、こんなところで道草をくってしまってはだめなんです。 人によっては30年近くこんな所で足踏みしてしまっている人達がいるんですね。 どういう人が、人間界でセイブしてきた人達だね。
 人間界で誰それが怖いから、私は学校の先生だから、なーんていっちゃってね、自己規制してきた人達に限ってここでは、珍しいから30年くらい足踏みしちゃう。 まあ、どうでしょう、一週間くらいで通り抜けたら……。


 ●夫婦の出会い

 さてね、霊界・人間界を通じて最も劇的な出来事というのは、こりゃあ夫婦の出会いなんです。
 みなさんね、御夫婦というのは、自分達が或いは恋愛をして、或いはお見合いで結ばれていると思っているんでしょう。とんでもない。
 ここが霊界だとすれば、僕がね、ちょっとした高級霊だとすれば、ここでウォッチングしているわけだ。見ている。「いたいたいた」 どういうふうにいた。
 最も性格の合わないのがいた。これを赤い紐なり、青い紐なりで結びつける。そして、人間界で長丁場同じ屋根の下で我慢せいというのが、結婚の大目的なんです。
 それをね、性格の不一致なんていって分かれるのはとんでもないんです。 はじめっから性格の合わない者を結びつけているんだから。 それが目的なんだから。 同じ屋根の下で我慢せいというのが、神様の大目的なんだから。
 たとえばね、交通事故なんかで一緒に死ぬでしょう。 あの世へ行くでしょう。後も見ないね、さよならパーとわかれてっちゃう。
 ところが、そうでないカップルもたくさんいますよ。
 どういうようなカップルか?
 一目惚れっていうやつ。これも実は霊界の方でちゃんと決められている約束の一環なんだけれど、これはご本人たちの修業の為じゃないんです。
 1+1が2になるんじゃないんだ。1+1が十に百に千に万になるんだ。 そして、この二人が結び付くことによって「明るく、すなおに、あたたかい」雰囲気を周りの人達にまき散らすんです。
 すなわち、生ながらにして神様のお手伝いをしているカップルなんです。 こういう人達は、どうなるかというと、たとえば旦那が先に死んだ。女房殿が死んでくるのを待ってる。 だいぶ違うね。さよならパーとはだいぶ違うんだ。 待ってるって、いつまでも待ってるって、死んでくるまで。 向こうに比べれば人間界の十年とか二十年なんてアットいう間ですから、待ってますよ。 ところがね、あの世っていうのは、いる場所が違うから……。
 旦那の方が一等船客、女房の方が二等船客。 二等船客は一等船客へ行かれない。上は下へ来れるから。 上の者が降りてくる。 自分の女房なり旦那なり、自分のこんな激しい上の波動でもって女房のあるいは旦那のこんな緩やかな波動を包んでしまいます。 そして、光り輝く、上の方へ行けば行くほど光の洪水だから、目の眩むような光の中をウワー突破してっちゃう。そういう御夫婦は永遠にいっしょにいる。霊界を貫いて永遠にいっしょにいる。 おまけに女性であった人が男性の霊の中に入り込んじゃう。カンガルーのように。
 だから向こうでは2つの霊として扱わない。一つの霊、それも二人が別々にいた時より、もっと高い霊格として扱われる。 さらに都合がよいことにはね、別々に活動することもできる。まさに一心同体。こういう御夫婦がいくらでもいる。


 ●家族の場合

 じゃ、家族の場合はどうかというとね、……。
 まあ、東名高速で事故を起こして一緒に死んじゃった。 誰が見たって家族だ。大概の者は一人で来ているから羨ましい。その内段々変化が起こってくる。 旦那はね、「おれはこっちへいこうかな」 女房は「私はこっちへ行っちゃおうかな」 息子は「ぼくはこっち」娘は「あっち」 テンデンバラバラ。 これは人間界では何とも情けないけれども、霊界の掟の様ですね。 ところが、これにも例外がある。うれしいね。 人間界で本当に仲が良くて、各々が各々の霊格を高めあっていた一家っていうのは違うんです。
 これは、一緒にもし死んでる場合、あるいは順繰りに逝った場合でも、まとまって、これがさっきの夫婦と同じように、まとまって新しい彼らの霊格に会う場所にいってしまうんです。これは必ず天国的な処へ行きます。天国だっていろいろあります。
 だから我々は人間界で本当に仲がよくって、仲がいいという表現は気に入らないね。お互いがお互いの霊格を高めあうような一家というのは、これはもうとてつもない一つの城だ。
 それには、まず挨拶から始めなくてはならない。 どういうように。簡単だ。朝起きたら
「おはよう」 寝るときには「お休み」 これが出来ない一家は最早駄目。 だからこれから家庭を作ろうという人達、必ずこの習慣はどんなことがあってもまもらなくちゃいけない。 「私は父親だ。私は母親だ。だから息子の方、娘の方がおはようと言うまで言わない」 これじゃ駄目なんです。 なんでもいいんだ。そんなことは、順序かまわない。 あった途端に「あ、おはよう、おはよう……」
「お休み、おやすみ……」 これの言えない家はだめ。 あきらめて頂戴。

                                            つづく

                                        丹波哲郎

      ※ある講演会の内容をご紹介しました。来月はこの続きからです。