丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」

            〜第10回〜 死後の世界の様子 車と運転手5
                   《2001年6月掲載》


      ※車と運転手を例にとって、死後の世界の解説は今回最終回です。


 ●死の自覚が何より大切

 運転手(魂)が大宇宙に帰るにあたり、又々、霊界街道は二つに別れています。右は死の自覚道、左は死の無自覚道なんです。この時点で、死の自覚のない運転手(魂)は街道が薄暗く見えます。たそがれと言えばそんな感じです。とにかく、夕景なんです。然し、どこまで進んでも夜は来ません。
 かたや、死の自覚を持った運転手(魂)は霊界街道が遠くまで見通せます。空は朝方の明るさです。これは簡単に説明出来ます。死の自覚の有ると無しでは、魂自体の明るさが違うんです。運転手(魂)の明るさで、車(幽体)が光っているんです。ですから魂の光が強ければそれだけ先の方まで光が届きます。霊界街道は全て、それ自体が光っているんです。若し、死の自覚が無い運転手(魂)が明るい霊界街道を走ったら眼がくらんで運転できません。
 彼は、極く自然に暗い街道を選びました。これが彼の行く道なんです。


 ●縁者との再会

 さて、死の自覚を持って明るい街道を走った運転手(魂)は、人生街道で縁のあった人々と再会します。特に愛で結ばれていた場合、その再会は劇的です。その幸福感は天にも昇る思いでしょう。この様な再会のために、人生街道を走って来たんだと言い切っても、少しも過言ではありません。それ程の感激なんです。『神様』と絶叫する程のしびれ方なんです。何せ、人に依っては何十年も会っていません。当然、名前も忘れました。  それに全員が全員、変に若いんです。「変に」という表現は取り消します。「驚く程」若いんです。80才位で死ん筈なのに30代にしか見えません。車椅子の筈だったのに、しっかり霊界街道に仁王立ちしています。そんなことより全員の顔が生き生きと輝いているんです。幸福感が伝わってきます。彼等、彼女達の喜びがはじけています。運転手(魂)の前妻も後妻も一緒でした。前の彼も次の彼も一緒です。
 この明るい霊界街道では人生街道のような、恨みも憎しみも嫉妬も何もありません。影も形も消えています。親しみと愛だけが輝いているんです。
 この再会のために人生街道を走ってきてよかったとしみじみ感じてしまいます。運転手(魂)のまわりは待ちに待っていた愛と喜びの人々で身動きも出来ません。
 運転手(魂)は泣き出しました。 「こんなにも待っていてくれたのか」「こんなにも喜んでくれたんだ」と。運転手(魂)は自分が死んで現在、此処に居ることが信じられません。死とはこんな素晴しい出合いをさせてくれるんだと。
 でもいつまでも、こうしてはいられません。


 ●喜びと幸福感

 これから、この運転手(魂)が行くべき処があるんです。然し、彼は知りません。彼は自分では何もかも出来ません。唯々、導かれるだけなんです。素直なものです。
 然し、明るい期待があります。あたたかい気配は充分感じます。死とはこんなことだったんだと運転手(魂)は肩から力が抜ける思いで大安心します。
 この喜びと幸福を人生街道に残した家族や知人に、知らせたい願望が次第に大きくなってきます。これは彼の人生街道にいる者達への思いやりなんです。 「安心しなさい、心配はいらないよ」と言ってやりたいんです。 「人生街道では、人のために尽くしなさい」と言いたいんです。それには余裕が必要です。心の余裕があれば自然に他人に対する思いやりが出てくるんです。正に愛ある思いやりです。その余裕は死に対する恐怖が無くなることなんです。それは、死の知識と言ってもいいかもしれません。


 ●同種の車が集まる

 運転手が気がついたことは、人生街道で縁あって愛し合っていた人々が、いつの間にか、一人消え、二人消え、本当に心の底で真実の愛で結び付けられた同士しか、残っていないことでした。
 でも、不思議なことに、霊界街道は無数に別れていても、極めて自然に同種の車(幽体)が、いつの間にかそろって走っています。今、走っている街道から、他の街道も無数に見渡せますが、それぞれの街道におもしろいように、同じ種類の車(幽体)だけ集まって走っているんです。この見事なほどの種類分けされて走り続けている街道は、人生街道で想像も出来ません。
 街道筋は、ますます美しくなって来ました。この霊界街道が遥かに伸びて吸い込まれていく先々の森も、丘も、光り輝き、人生街道では見たことも無い色鮮やかな花々が、むせ返る香りとともに、そよいでいるんです。
 運転手(魂)は、ふと、我に返りました。光がいつの間にやら違うんです。強烈な光なんです。人生街道で言えば、真夏の真っ昼間の目もくらむような強烈な光なんです。然し、運転手(魂)は、この光に耐えています。耐えるどころか、喜び勇んで、躍り上がるような気持ちでいるんです。運転手(魂)はまさにこの光に会っているんです。
 霊界とは何とそれぞれの光に合った魂しかそこにいられないんです。その光に耐えられる魂は、人生街道で培われたものでした。人生街道を愛で通ってきた運転手(魂)が、知らぬ間に授かっていた恩恵が光だったんです。光こそ、霊界街道を走り抜ける最大のエネルギーだったんです。光とは愛でした。愛とは想念でした。他人に奉仕しようとする大自然の法則でした。言わば、神様の思いなんです。
 神様とは、大自然・大宇宙の法則であり、秩序なんです。人生街道を明るく素直にあたたかく走り続けた場合、運転手(魂)が、貯金してきた霊界銀行の宝物なんです。運転手(魂)が、あたり一面に展開されている果てしなく美しい光景に見とれていたとき、霊界街道はいつの間にか大盆地の真っ只中に入り込んでいたんです。大盆地と言っても、人生街道で見慣れたような盆地とは雲泥の違いです。天地ほどの違いがあるでしょう。遥かにそびえ立つ雪を頂く山々は、荘厳と言う言葉では、とても追いつきますまい。街道は、そこで終わっていました。あちらこちら、種類別に車(幽体)の集団が円形にまとまって停車しています。その停車の集団の大きさはまちまちです。50台位のものもあれば、500位のものもあり5000台ほどのものもあります。唯、完全にまさに完璧に同種類の車(幽体)だけで一台と言えども別種の車は交じっていません。

 ●魂の形態

 運転手(魂)の本来の形態は、直径20センチメートルくらいの球です。色は「紫」、それも薄紫で白味がところどころにあり、それが斑点状に散らばっている。その上、沸き立つように振動しています。即ち生き生きとしている。 これが想念に依って一瞬のうちに変化する。
 殆どの場合、前世の姿に戻ります。決して前々世や、さらにその前には戻らない。だから、前世で女性であった場合、この時点で男性には変化しない。しかし、魂それ自体は男女両性であるらしい。


 ●運転手(魂)の生活

 運転手(魂)が暮らしている状態は、丁度サバンナの大自然の中で、諸動物が「群」をなして移動しているのに良く似ています。唯、群は移動しないで、集落化している。大きな集団になると「村」というより「町」。更に大きくなれば「都市」状態程の集まりになります。しかし、各自の集団は全く没交渉かといえば、そのように見え、実際にそれに近いが、外交員がいて、僅かに連絡を保っているようです。
 ベンツ集団の運転手が、トヨペット集団には顔を出せても留まることは出来ません。  このように運転手(魂)は仲間の中で、仲間同志が知識・経験を研鑽・交換・勉強し合って向上していきます。
 運転手(魂)が今乗っている車は、人生街道で乗った車(肉体)と全く同じですが、状態が極端に違います。古くなることも、壊れることもありません。水の上も走れば空も飛びます。これで楽しくないはずがありません。それに運転手(魂)同志、全員気が合っているんです。まるで自分が大勢いるのと殆ど変わりません。自分の好みが他の運転手(魂)の好みとそんなに違いません。
 ですから、何かと言えばすぐ一致団結してしまいます。「反対」と手を挙げる運転手(魂)は、この何万年の間、一人も現れていないようです。ですから、まさに天国なんです。こんな暮らしよいところは、カネと太鼓で探しても見当たりますまい。従って、出ていきたくありません。人生街道など思い出してもみたくないんです。
 元来、ここが運転手(魂)のふる里であり、生家であり、学校でした。しばらく運転手(魂)は、休養します。さらに人生街道での想い出・経験を整理して、自分の今後の発展に役立つものはしっかり取り入れました。



 ●想念の世界


 さて、帰ってきたばかりの運転手(魂)にとって、まず仲間全員に挨拶し終えねば次の行動に移ることが出来ません。ところが、大変便利なことは、各人毎に出掛けていく必要がないんです。全て想うことが即かたちになります。
 想念だけの世界は、大変な世界なんです。常に何千何万の想念が入り乱れて飛び交っていますが、テレビの画面と同様に映像化されるのは、その中の一種類だけなんです。丁度オーケストラを聴いているのと同じです。いくつものオーケストラを同時に聴けば頭の方がおかしくなります。それぞれが、どの様な名曲を奏でようとも、唯の雑音でしかありません。
 これでは、魂の向上には役立ち ません。

                                        丹波哲郎

※車と運転手を例にとって、死後の世界を説明してきましたが、とりあえず今回で終了します。来月は違った角度から解説します。