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今月のゲスト ダーティ工藤さん 【第45回】 《2004年7月号》 今月から掲載する内容は、この春出版した『大俳優 丹波哲郎』の中で、 霊界研究に触れた部分を御紹介します。 対談相手は、この本を編集した「ダーティ工藤」(映画評論家・監督)さんです。 霊界の宣伝マンと霊界映画 �癸� 工藤 「霊界の宣伝使」というのは、いつ頃目覚めたというか、悟ったんですか? 丹波 30代の後半だね。 工藤 新東宝を辞める前後ですね。 丹波 そうだね。暖炉に近づくと熱を感じてくるように、自分は霊界のそういう使命を貰ってるな、という熱を感じたんだ。 何か自分が交通事故に遭いそうな予感がしてくると、自分で運転したくなくなる。 それは向こうから出てくるときに「お前の人間界の終末はこうだよ」「交通事故という形で人間界を終わるよ、いいね」「結構です」ということを承知して出てくるんだ。 これは霊界を研究してないと、口で説明したんじゃわからないけれども。 俺の場合も「お前を霊界の宣伝使にするよ、しっかりやってこい」「はい、ありがとうございます。一生懸命やります」と言って、人間界に出て来たにすぎない。 それで人間界に出てきて、自分の体を母親に貰った瞬間に入ってくるから、俺はその時点では使命を覚えているんだけど、「オギャッー」と生まれて来てからは忘れてしまうのよ。消えちゃうんだ。 ところが、段々段々年齢を重ねるに連れて、本来自分が生まれて来た目的というものに近づき始めるんだよ、私が。 目覚めていくという言葉が一番いいかも知れないね。だから、今はどう考えてもそうでなければおかしい。 俺の家は、ほとんど俺以外は「東大」だよね。 しかし、そっち(東大)へ行ってたんでは俳優になっていない。だから、そういうふうに仕向けているんだね。たとえば、母親が色盲の因子を含んだ女なんだ。 遺伝だから、俺も赤緑色弱。 成城中学というのは軍人の学校だから、児玉元帥の息子の英薙が校長で、乃木大将の息子の保典(やすすけ)、希典(まろすけ)も成城だし、終戦のときに処刑になった将軍は全部成城だもんね。 そうすると普通の中学では、せいぜい一人なのに、成城というところは全国の軍人学校に200人くらい入るんだ。俺はやっぱり軍人学校への進学試験を受けて落っこちたんだ、色盲で。 だから軍人というのは、そのとき断念。軍人になるために成城に入ったのに……。 それなのに軍人になれない体だった。それを発見したんだ。それも決まっていたんだね。 親父が仙台の二高だったから、二高を4年、5年、浪人1年と3回受けて落っこってんだ。 もう一年浪人したってダメだ、というんで、俺は入る圏内までいってないんだから。そうすると中央大学というところは適当なところなんだね。 林頼三郎さんというのは総長で、親戚。 入れてもらった、という感じだね。丹波家では一番どうしようもないドラ息子、という感じだった。それが俳優になったら向いてるんだ。これがね、俳優になるように出来てるんだ。 ところで、小倉繁さんって知ってる? 工藤 ええ、戦前の松竹蒲田で渡辺篤さんや坂本武さんとかと共演したナンセンスコメディで人気ありましたね。戦後は新東宝によく出てましたよね。 丹波 それがね、ロケーションのときは「死ぬなんてどうってことないんだよ」と言ってたのが、自分が癌になったら、それこそ泣いて泣いて醜態をさらしたらしいね。 林寛がよく見舞いに行ったらしいよ。とにかくお別れが嫌だと。 人間が死に直面すると、こんなにもあさましくなるのかと。俺の霊界研究のきっかけというのは、どっちかというとそれかも知れないね。 工藤 現在、宣伝マンであらせられますけど。やっぱり俳優という入り口がなければここに辿りつかないわけでしょう。 丹波 俳優にならなければ宣伝マンとしても成功していない。だから俳優としても一生懸命やらなくちゃいけないんだけどね(笑)。 工藤 (笑)色々人によって演技のパターンがありますからね。丹波さんにとっての一生懸命はこういうパターンなんでしょう、きっと。 丹波 うん。でも俺は俳優になって良かったと思ってるよ。俳優になってなかったら、何になってるって。もう本当に丹波の家の厄介者だぜ。 工藤 『砂の小舟』というのは最初の霊界映画ですね。 丹波 そう。で、最初監督は原田雄一じゃなくて深作監督が撮る予定だった。ところが深作がハッキリ返事をしてこないんだ。かといって断るわけでもない。俺も深作に付き合ってられないから、当時は助監督の原田雄一とロケハンとかにドンドン行ってたわけ。それで結局、監督は原田雄一でいくことになったんだ。 原田雄一はその頃テレビの「プレイガール」(68〜74)を年何本か撮る程度。ただあいつは真面目だからね。で、原田雄一でいくことになり、ロケハンも終って家で原田たちと麻雀やってたら、深作がひょっこり来やがった。「もう原田でいくことになったから」って言うと、「ふうーん」みたいな感じ。 それからしばらく俺たちの麻雀をながめて帰っていった。おそらく深作は別の(進行中の)映画と二股かけてたんじゃないかと思うんだな。 で、『砂の小舟』のアクションシーンは俺が演出した。芝居の場面は原田雄一。スペクタクルシーンは『人間革命』で2億かけたシーンをそのまま借りてきた。 工藤 地震のシーンですか。 丹波 そうそう。あれはもっと長く使う予定だったんだが、編集マンがカットした。 工藤 製作費はどれくらいかかったんですか。 丹波 2000万円 工藤 これは結構儲かったんじゃないですか。 丹波 『砂の小舟』はもう丸損。ちゃんと上映してないんだから。 工藤 でもカンヌ映画祭まで持っていかれたじゃないですか。 丹波 カンヌまで持ってかれたのがもう、せめてもの私の喜びだね。 工藤 カンヌでは買い手が付かなかったですか。 丹波 買い手が付かない。というのもアーリン・シャピローというのが相当な金を吹っ掛けたらしいんだ。アーリン・シャピローの手でカンヌヘいってるんだから。 海岸でもって300人のキャメラマンを呼んで、日本酒の菰冠(こもかぶり)で、オンザロックのパーティーを開いたのを、渡辺亮徳と深作が指をくわえて、「ウチもあれが出来たらなぁ」って言ってたらしい。 工藤 ところで、丹波家に霊人がくることはないのですか。 丹波 くるよ。阿部ジャッキーとか。 工藤 阿部豊監督が来たのですか。 (阿部監督とは、当時日本を代表する監督) 丹波 うん。彼が死んだとき俺はちょうど外国行ってたから、葬式には出てないんだ。 帰国して阿部さんが亡くなったこと聞いて「ご焼香に行きたい」と電話をかけた。 そうしたら「こないでくれ」と言うんだ。 「どうして」と聞くと「恥ずかしいから」ということなんだ。 でも(俺はご焼香に)行ったんだね。一間のマンションに住んでるんだ。 「とにかくお墓だけは教えてくれ」と。 お墓参りにも行きましたよ。知らなかった。誰にも教えてなかったらしい。だから半年くらい僕は(阿部豊監督が死んだことを)知らなかった。 で、その阿部ジャッキーがね、僕が最初に霊界映画を撮るときに出てきたのよ、うちの2階に。初めは僕は阿部ジャッキーだと分からなかった。 鶴田照子さんという大船に住んでいる霊媒師がいるんだ。この人が俺の女房と仲がいい。俺は彼女に頼まれて講演したこともある。 それが2階で「まずヨーロッパ系の人が現れます。やしの木が見える。でも後頭部かそのあたりから、血が流れている」と言うんだ。 「いやあー分からない」と思って、ハッと気がついたのは、(『第七の暁』のロケ先の)クアラルンプールで俺の運転手をやっていた、ウィリアム・ホールデンのスタントマン兼スタンドインの『キース・ピーコック』。それが僕がロンドンに滞在中にパリに行く話が出て、彼はその旅費を稼ごうとして、その前の晩にスタントマンとして働きに出てるんだね。 そして、18フィートから飛び降りて(クッションの)ボール箱を外しちゃって、床に頭を叩きつけたんだ。即死ではないんだけれども、そういう事故があったという電話があって間もなく死んだと……。 工藤 霊というのはその人だと。 丹波 そうだね。それしか考えられない。それと同時に「もうひとりいる」と言うんだ。 「お坊様の親戚はいますか」と言うんだ。「いや、いない」と。 いっくら考えてもいないんだ。「いないね、いないね」と言いながら一時間ぐらい経ってから、「あ、そうだ。この人ね、お坊さんのような雰囲気だけれども、ネッカチーフを実に器用になさってる」。 俺はそれを聞いて、「あ、阿部ジャッキーだな」と分かった。ネッカチーフでね。我々がやるネッカチーフではなく、実に小粋にさりげなくやるんだ。「この方は、今度あなたがやる霊界映画について非常に心配してらっしゃる」という追い討ちがあって、更に阿部ジャッキーだなと、と確信した。 工藤 それは丹波さんに何かを言いに来てるんですか。 丹波 俺には分からない。俺はそういう霊媒体質じゃないから。 その霊媒師の大船の家に息子が車で送っていくときに「ほらまたひいた。ほらまたひいた」て言うから息子は嫌になっちゃって。彼女から見ると町中幽霊なの。 要するに幽霊の群集のなかを車が突っ切ってんだ。 工藤 そりゃ運転している息子さんもいい迷惑ですね(笑)。 丹波 「ほら、またひいた。ほら、またひいた」てやるらしいんだよ。初めは冗談でからかわれているんだと思ったけれども、リアルに「こう来て、こう突き抜けてった」て言うんだ。終いにはやんなっちゃった。次から「もうあなたを送って行くの嫌だ」て言い出しちゃったよ。見える者にはね、いくらでも見える。 工藤 丹波さんは、小学生のころに臨死体験をしたと伺いましたが。 丹波 臨死体験だと、そのときは気づかないんだよね。今からみれば完全に臨死体験だけれども、当時は「今まさに臨死体験をしているんだ」ってことに気がつかない。 工藤 その頃は知識がない。 丹波 小学生1年生で、腐った田舎饅頭を盗んで…。 工藤 腐った田舎饅頭(笑)。 丹波 捨てようと思って梱包して菓子棚においてあったのを、踏み台か何か持って来て、その上に乗って盗んで…見つからないように布団被って喰ったんだな。 工藤 当時は間食すること自体禁止されていたんですね。 丹波 とにかく捨てようと思っていた饅頭らしいんだ。 捨てようと思ってたのに菓子棚に入れておくバカもないけどね。 妹の継子はそのために死んだんだよ。赤痢にかかって。二人とも大久保病院に入院したらしいよ。 継子も入院してたことを俺は知らなかったんだよ。病院で死んだことも知らなかった。だから退院して家に帰ってからしばらく経って「継子がいないなあ」って気がついた。家の者及び近所の者まで、俺が死んで継子が生きて帰ってきたら良かったのに、というような感じで、何か冷てェんだよなあー 笑)。 工藤 そのときの臨死体験というのはどういう感じだったんですか? 丹波 臨死体験というのは、そもそもこういうことだ、という実際の例を言いましょう。 ベトナムでアメリカ兵が10数発も撃たれて死骸になっている。 それを麻袋に入れて、ヘリが基地へ帰るのよ。それを下ろして麻袋を切って死骸を出して、運び出そうとしたときに「あれェ」って気がついたのは、どことなく生きている感触だった。事実生き返ったんだよ。 その兵士は「どっこも痛くねェ、えっ、どこを撃たれたって」って言い出した話があったんだけど、それが最初だと思うな。 とにかくね、死というのは、何をやられても痛くない。弾が何発入ろうが痛くない。弾が打ち込まれているのはよくわかる。 僕の場合はね、よくいわれるように、自分の姿がはっきりと見えたってことはなかった。私のベッドに私が寝ているという自覚はある。 そして、段々自分が小さくなっていく感じがするんだ。で、俺が浮くのよ。顔は上を向いている。だから天井が見えるはずなのに、下が見えるんだ。すなわち後頭部で下を見ているような感じ。あるいは全部見える。もう四方八方見える。 通常の人間の視覚の概念じゃ説明つかないね、ありゃ。 それが臨死体験。自分が死んでいるとは絶対思わないの。いつの間にやら、ベッドに寝ている自分の体が小さくなって、上昇していく。 だが上昇しているということに気づかない。ベッドの上にある人形みたいなのがあるのは分かるけど、自分だとは思わない。で、途中でなくなっちゃうのよ。 工藤 なくなるというのは。 丹波 消えちゃうんだよ。ここまで昇ったんだから、こういうふうにまた下がってくるならまだ分かるけど、ある程度昇ったところでパッと全部消えちゃう。目が覚めるとか、覚めないとか関係ない。そういう状況じゃない。 その次はどうなるかというと、別のシーンになってる。たとえば、山の上の方に行ってたり、池で泳いでいたり。そんな状態のところで、また覚醒があるのかもしれない。 とにかく一旦切断される。消えてなくなっちゃう。 工藤 記憶もそこで途切れてしまうのですか。 丹波 そう。のちの記憶というのは、段々と一枚一枚薄皮を剥がすようにして回復してるんだろうな、っていう感じ。 工藤 病院に入院している記憶になっているわけですね。 丹波 そうそう。大久保病院ってとこ、今でもありますよね。そこで色々動物を飼ってるじゃない。その動物を、僕に付き添っていた女中と一緒に手を繋いで見物して歩いたのは覚えている。 そのときはもう実際に歩いているんだ。で、食べ物がおもゆからお粥になっていくというところで退院している。家に帰ると継子がいない。継子がいないってことに気づくのに、一年くらいかかってんだ。 工藤 またまた、そんなことないでしょう(笑)。同じ屋敷におられたんでしょう。 丹波 分からないんだよ。いやあー、気がつかない。もっと前に気がついているのかもしれないけどねェ。気づくのが非常に選いねエ(笑)。 工藤 でも、誰か教えてくれるでしょう。 丹波 いやいや、誰も言わなかったね。継子が死んだってことは聞いてない。 工藤 兄弟同士であまり遊んだりしなかったのですか。 丹波 そうねェ、しなかったねェ。俺のこと「坊や」って呼ぶんだ。「坊や、嫌い」だって。俺のこと嫌いだったんだ。 工藤 何か嫌われるようなことしたんじゃないですか。 丹波 (笑)何かしたんだろうな。 それから、だいぶ経ってイギリスのホテルで、向こうの人たちと対面することになる。 (このイギリスでの話は何度も本サイトに取り上げましたので、ここでは割愛します) (つづく) |
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