難事よきこと

こんにちは

いつもありがとうございます。

ありがとうございます。

介護のことを書こうと思いましたが、またにします。

生きていると、色々な出来事に遭遇します。

こちらのブログをお読み頂いている方も、いま、苦しみを抱えている中で、悩み、涙を流しているかも知れません。

でも、この世に意味のない苦難はありません。

「難事よきこと」

苦難と思うと、不幸と発想してしまいますが、その苦難を招いたのは自分自身です。

つまり「身からでた錆」なのです。

どうしていまの悩みを抱えてしまったのか、過去にさかのぼり内観してみると、自分が選択した結果なのです。

自分が選んだ道が間違っていたかどうかは、死ぬまで分からないでしょう。

でも、その苦難と思う気持ちは、自分自身と向き合うのを避けているから、「辛く」感じることでしょう。

自分自身と向き合うことほど、辛い修行はないのです。

鑑定の際に、「どうやったら、私のカルマ(業)は軽くなりますか?」と質問されることがあります。

そのカルマを取り除くには、自分自身が苦しみ、悶え、内観する時間が必要なのです。

時間を掛けて、そのマイナスのカルマを取り除くことで、必ず、知らない間に脱皮できます。

もちろん、逃げていては、何も変化がないまま、その苦しみから逃げるために、何かに依存してしまい、もっと、深い部分で雁字搦め(がんじがらめ)になってしいます。

どんなことも、自分自身の波長が招いたことなのです。

過去に自分が蒔いたカルマ(業)を取り除くこと、そして、その過去があるから、今があることを納得し、受け入れることが出来れば、その問題がどのようにしておきたのか理解できることでしょう。

人間として生まれて来て、失敗しない人はいません。

もしも、失敗しないで永遠に大成が続いている人でも、人に言わないだけで、悩みはあるでしょう。

ただ、その悩みを愚痴ったところで、何かが変わるわけでもないと思っている人もいます。

そもそも、幸せとは何でしょうか。

お金を何億保持していても、幸せではない人もいます。

権力も病気になってしまっては、儚い幻のように遠のいてしまうものでしょう。

幸せは感じるものです。

過去や未来のことばかり考えていては、「いま」を感じることが出来ず、幸せを感じることが出来ません。

また、人と比べてばかりいると、自分自身の人生なのに、他人を羨ましいと思う気持ちから、「自分は不幸せ」だと思ってしまうことでしょう。

他人の持っているものを羨ましいと思うだけで、自ら努力せずに、他力本願過ぎては、「自分の幸せ」に気づくことは出来ないでしょう。

他人と比べている間は、幸せとは何なのか気づかないでしょう。

自分自身で気づかなければ、幸せは永遠に分からないままでしょう。

物質的な物が人よりも多く保持できれば、幸せになれると思っている方は、宝くじで10億円、当たったとしても、お金の心配が出て来ることでしょう。

それは、「いま」を生きていないために、物質的な物が人よりも多くあることに安心できるのは、ほんの瞬間です。

でも、これから先に向かい受ける不安定な世の中には、金銭的に余裕があった方が気持にも余裕が出て来ます。

「三途の川も金次第」という言葉があるように、生きている間も、死んだ後も誰かに葬式をあげて貰うにも、お金は掛かります。

ただ、あまりにも物質的な欲を満たそうと思うと、幸せを感じられないまま生活をして行くことになります。

本当の幸せとは、何でしょうか。

思い通りの学校に通い、良い企業に就職することですか。

お金持ちになることですか。

相思相愛の恋人がいることですか。

何の苦労もなく、生きることですか。

人間関係で人気者になることですか。

元気で長生きすることですか。

一生、お金で困らないことですか。

物質的には幸せでしょう。

しかし、スピリチュアル的には、「本当の幸せ」とは、失うことの恐怖から解放されたときに、本当の幸せを感じることが出来るのです。

私たちは20世紀以前の古い生き方がお手本ですから、地位や名誉、財産などに執着する生き方が生きる上で「成功者」だと教わって来ています。

でも、その成功者でさえも、幸せを感じない人もいます。

たとえば、長生きすることが幸せだと考える人は「死」は不幸だと思い、死を恐れてしまいますが、「あの世」の存在を理解している場合は、この世でどれだけ長く生きても、霊的に成長できないまま、生きているのであれば、ほんのわずか生きた人の魂の方が、霊的真理を理解して、この世を去って行く人もいます。

肉体は失われても、たましいは生き続けます。

物質的な考え方で生きている人の望む幸せは、苦難は言葉通りの「苦しみ」でしかないかも知れません。

しかし、霊的な視点から見ると、人生に起こる大きなトラブルや難題を乗り越えることが出来ることで、魂の成長ができるのです。

いま、もしも、苦しんでいるあなたは、霊的な苦しみですか。

それとも、物質的な苦しみですか。

その難題を解決できるのは、あなた自身です。 でも、どうしてその方向へ行ってしまったのか、分からなくなったときは、霊能者、占い師にアドバイスして貰うことで、気づ

きを頂くこともできるでしょう。

今年こそは、実りのある年にしたい!人は、スピリチュアルな気づきを得て、霊的に身軽に生きて行きましょう。

アセンションの上昇中の2012年という年が、良い年になりますように、心よりお祈り申し上げます。

ありがとうございます。

カズコ

合掌

heaven15

— posted by カズコ at 08:44 pm   commentComment [0] 

大切な人を亡くしたあなたへ

Beautiful

こんにちは

いつもありがとうございます。

ありがとうございます。

今年は本当に寒いですね。キプロスに帰って来て雨ばかりでいつもなら夏の水不足を心配しなければならない状態ですが、今年は山は大雪、国土全体も水が豊富で良かったのですが、電力不足が解決していないので、今年の夏も計画停電になるかも知れないです。

さて、キプロスに帰国して忘れないうちに書いたノンフィクションのお話ですが、脱字が目立ってしまって近いうちに修正する予定でいます。

また、デジタル本へ編集したのちに更新する予定でいます。

今年も1ヶ月が過ぎてしまいました。

ゆっくりペースですが、ブログの更新もして行こうと思っています。 どうぞ、よろしくお願い致します。




3回目の大切な人の死を2011年の12月の終わりに体験させて頂きました。

人は必ず肉体を離れ、霊界に帰って行きます。

しばらくの間は、現世での繋がりの人から、霊界に帰る準備期間として、教わる時間が設けられています。

霊的な視点からみると、死は「魂が帰る場所」です。

たましいの故郷へ帰れる人は幸せです。

本人にとって死に対する苦しみはありません。

逆に長期に渡り、老衰状態になっても延命治療をして、横たわっているご老人の方々は、死ぬに死ねない状況で痛みに茂垣苦しみ、死を受け入れられない家族が長生きの方が幸せで、短命が不幸だと思っているかも知れません。

便利な世界になり医療も進化し続けるいま、「死」は悪い出来事のように、触らぬ神に祟りなしのような感覚に変化しているかも知れません。

霊界に帰ることができる魂たちは、家族に感謝の思いを色々な形で伝えようとします。

ですから、霊界に帰る人のことを生きている人は心配する必要はないのです。

霊界にいる魂の方が、「そんなに心配しないで欲しい」と願っています。

私の父はまだ帰ったばかりですから、霊的な年齢は「子供」になります。人によっては自分が一番好きだった時期に戻るようです。

あの世に帰ったからと言って、肉体を持っている私たちと異なるところはあまりないようです。

歌を歌うのが好きな人は歌を歌い、ダンスが好きな人はダンスをしたり、この世で行っていたことは大まか遣っているようです。

ただ、食べたり、飲んだり、お金儲けをしたりすることは霊界ではすることはないようです。

しかし、遣り残して死を迎えた人は、後悔することもあるようですが、霊界に帰れば守護霊たちが両手を広げて歓迎してくれます。

霊界に帰れないまま、肉体を失ったことを理解しないまま、うろうろとこの世の境目で生活をする霊にならないように、日頃から「死」を受け入れる霊的な学びも必要でしょう。

あの世に還ってしまった魂は、遺された家族が幸せに暮らすことを心より望んでいます。

大切な人を失ってしまうと、「あのときにああしてあげておけば良かった」と後悔したり、最後に会えなかったり、喧嘩した後に事故で大切な人を亡くした場合、突然、愛する人を亡くした場合、色々な思いに苦しむこともあるかも知れませんが、亡くなった人は、思ってくれるだけで感謝して下さっています。

肉体を持って生きているほうがいつまでも悔やんでいたら、あの世に帰るのを遮ってしまい未浄化霊を誕生させてしまう可能があります。

もしも、本当に亡き人を想うなら、遺された人は精一杯に自分の人生を生き抜くことが、亡き人の供養になります。

元気で明るく、幸せになることが本当の供養になるのです。

大切な人を見送ってしばらくの間は、悲しみも深いのは当然です。

どうぞ誰の遠慮も要りませんから、思いっきり泣いて下さい。

でも、いつまでも泣いていてはいけません。

本当の意味で亡くなった人のためになりません。

霊界に還った人は、明るく、素直に子供に戻り、また、あの世で学ぶことが沢山あります。

来世の為に、現世での反省をしながら、学び続ける必要があるのです。

「かわいそう・・・。」と初めて、前夫を失ったときに言われた言葉ですが、私の中では「なぜ?かわいそう?」と思うわれるのか分かりませんでした。

悲しいことは確かですが、時間と伴に大切な人の死を受け入れることで、生きている私自身の生き方が変わりました。

死を想うことで、深く見えない何かと繋がることが出来たことに感謝です。

今回の父の死を通じて多くの気づきを頂きました。

ですから、日本に帰国して体験したことは辛いこともありましたが、貴重な体験が出来たと心から父に感謝しています。

「お父さん、ありがとう☆」

次は、介護のことを書きたいと思います。

ありがとうございます。

shizuku

— posted by カズコ at 06:07 pm   commentComment [2] 

お別れの日まで  不思議な葬儀

「ワシは絶対に出ない」と言っていた兄は義理姉のお父さんが入院している病院へ「洗濯物を持って行くから、何かあったら電話してくれ」と言って、病院を後にした。

私は携帯でキプロス時間をチェックし、主人Mに父が亡くなったことを知らせた。

主人が来る日と父の葬儀が重なることになったので、関空に着いて私の実家まで一人で来れるのかと心配だったが、大丈夫だろうと思い。その後、葬儀屋さんが病院にお迎えに来て下さったので、霊柩車で会館へ移動。

年内は父の容態も安定しているとお医者さまが仰るので、兄宅に預けていた葬儀の見積もり表を姪っ子に持ってこさせ、兄も葬儀デレクター(最近はそう呼ぶらしい、10年経つと葬儀も鮮麗されたイメージなのか、家族の死を体験したことのない若いスタッフの方が故人を商品のように扱うように感じた。)

「お坊さんを何人お呼びになりますか?」と聞かれたときには、沢山のお坊さんにお経を上げて貰っても、本人のこの世での修行が満たされてなければ、意味が無いだろうと思いつつ、私が口を濁していたら、兄が「一人でいいに決まっているだろう・・・。」と言った。

葬儀の見積もりの際は、あれもこれも「こちらで致します。」と言っていたが、最終的には火葬許可届けも、のんきに私が「市役所に火葬許可届けを持って行ってくれましたか?」と聞くと、「午後から行く予定でいます。」と言われたときには、「午後から行っていたら間に合わないのでは?」と聞きなおすと、「大丈夫だと思います。」と言っていたが、別件で市役所に行く予定でいたので、「だったら、自分達でやります。」と言って、その会館に行き、市役所に移動した。

兄に私は火葬許可届けはお願いして私は別件でバタバタしながら、階段を登ったり降りたりしていたら、兄が「あいつだったら、絶対に火葬許可届けが出せなかっただろうな。」と言うので、「どうして?」と訊ねると、「父の本籍地が違っていて、ワシが覚えていたから、良かったけど」と言うので、「えっ〜、どこ?」と聞くと、「XXX町のXXX」というので、「それってどこ?私は住んだことないよね?」というと、「お前は生まれていなかったときに、住んだ記憶があるけど・・・。ワシ以外はこの本籍地言えるヤツはおらんな?市役所の人もパソコンで見れるようだけど、その住所を言わないと許可は出せませんとか言うし・・・。」と一人でブツブツ言っている兄にまだ確認していていなかったので、「だから、葬儀には出てくれるよね。」と訊ねると「あ〜。」と一言。

お坊さんに連絡を入れたり、あまり交流のない親戚に連絡入れたり、ご近所の人に連絡を入れたり、兄達も近所に住んでいたが田舎は班という形式があるらしく、同じ班で無い場合は名前と顔が一致しないらしいので、私が「この人誰だろう?」と父が綴っている連絡先の大学ノートを見ながら、義理姉達に尋ねると「知らん。誰かね?」と分からないらしい。

通夜をするかどうか兄と話して、親戚とも私たちも母が他界した時点で交流がないし、ご近所の方のために、豪華に葬儀をする気持ちは兄も私もなかったので、枕経をあげにいらっしゃったご住職に出来れば葬儀の日に納骨もお願いした。

ご住職はなぜか私の主人が日本にいつ来るのか気になったのか、何度も「ご主人はいつ日本に来るの?ご主人の名前は何て仰るの?」としきりに聞かれて、父の葬儀と関係があるのか?と兄が住職が帰った後に文句を言っていた。

姪っ子がご住職がひそひそとスタッフの人にどれぐらいお布施をこの家族は貰えるのか聞こえたらしい。

兄が通夜も遣らないと言ったから、通夜もしない家族からはいくらぐらいお布施が貰えるのか気になったのかも知れない。

兄が「今夜はお前とだけとゆっくり通夜がしたい。」と言うので、お泊りする用意が必要だから、自宅に行って、兄宅に荷物をおいて、兄の住んでいる行き着けの居酒屋で二人で飲むことにした。

私は父に可愛がられていたので、兄が父を憎愛する気持ちは何となくしか分からないが、兄は兄なりに、父を愛していただろうけど、同性同士だと波長が合わないこともあるんだろうと思えた。

私が「生まれ変わるたびに、ヨっちゃんの縁で生まれると辛い体験ばかりするから、来世からは友人とか、知人ぐらいの縁にしておきたい。」と言うと、兄は「そういわずに、何回もワシと家族として生まれ変わってくれ。」と言うので、「霊界に帰って考えるね。」と私が返答すると、無言で寂しそうだった。

今まで吐き出したかった父との思いを兄は焼き銀杏を食べながら、夜遅くまで兄の話を聞いていた。

葬儀の当日は喪主である私は人よりも早く行かなければならないので、前夜、タクシーを依頼して電話を切った後に兄から「明日、迎えるに行くから、準備しておけ」と電話があり、「時間通り来てよ。」というと、「大丈夫。ワシとXX(甥っ子)が迎えに行くから時間よりも早く着くから、着いたら電話する・・・。」と言って、葬儀の前夜は疲れきっていたので、逆に葬儀の日に早く起きれるかと思いつつ、寝た。

しかし、私が寝ようとすると、父が現れたりしたので、葬儀の当日は寝不足だった。

葬儀の当日は瀬戸内海にしては冷え込んでいた。

父宅は今だ井戸水を汲み上げる水道になっているので、日が照らないところは凍っていた。

冷たい水で顔を洗い。コンビニのおにぎりをひとつ食べて、夜はみんなで食事をした後ぐらいに主人が新幹線に乗って、兄の引っ越した町に来る予定だったので、駅から近いホテルを予約していたので、お泊りの用意をしながら、寒い部屋で朝のニュースを見ていた。

かの有名な独裁者の国葬の日と重なった。

朝の10時からの葬儀にしたので、まだ日が照っていない冷たい空気が身体にしみた。

礼服に着替えて、すこしお茶をしていたら、受付嬢を担当して貰うために姪っ子たちが会館に到着した。

私が姪っ子に一礼の説明をしていたら、ご住職よりも先に父に40年以上前にお世話になっていた会社の娘さんと仰る方が「看板を見たので、こんなかっこうで許して下さいね。」と父に挨拶して下さった。

私たちもまったくご近所の方でも、一人、二人ぐらいしか知らないので、ご住職がお越しになったので、ご挨拶しに控え室に行って帰って来たら、バタバタと多くの方が同時にお越しになられた。 姪っ子に指示をし、私がお一人、お一人に挨拶をしていたら、ご住職が父の棺の場所にお越しになられた。

ご住職は足が悪いようなので椅子を用意して貰っていた。

私も海外生活が長い為、正座する機会がなく、足が悪いので椅子を用意して貰っていたら、兄も椅子に座ることになった。

厳かに葬儀は始まり、お経をあげて下さっていたら、横にいる兄が突然に大きな声で泣きじゃくり始めた。大粒の涙、鼻水もずるずると流れていた。

私自身は何度も父の容態の変化で涙を流していたので、兄がここまで泣いていることに驚いていた。

ふと、祭壇を見ると、蝋燭が大きく波打っていた。

母も参列していることを実感した。

何枚ものティシュで兄は涙を拭いていた。

兄が泣くのを終えた後に、「ご焼香です。」と喪主の私から順番にご焼香を始めた。

私の次は兄の番、そして、義理姉、その隣に姉のサー子が座っていた。

導師(ご住職)が「南無〜南無〜陀ブツ〜」とお経を唱えている中、

姉の番になったときに、姉は行き成りサンドルウッド(白檀)を鷲づかみ、すこしずつ、もこもこと立ち上がるチャコールの上にばさっと投げ入れ、行き成り大声で「アーメン!」と言った後にクロスをきった。

私がサー子を見ると、さらに2度目白檀を手に一杯取って、バサっと、チャコールの上に投げ入れ、再び、大声で「アーメン!」と十字を左から右へ、きっていた。

さすがに導師も隠れキリスタンがいたのかと驚いた様子で、びっくりした様子で咳き込んでしまっていた。

サー子としては、三度したかったようだが、義理姉が手を押さえていた。

部屋中、ビャクダンの煙で一杯になった。

私も、兄も、笑いをこらえるのが精一杯だった。

サー子を見ると、ちょっと、不機嫌な顔をしながら、ぶっすとしていた。

やっと、笑いがおさまったときに、「初七日のご供養もご一緒に」とご焼香を再度、私から始めた。

サー子の番になったときに、義理姉が三本指で白檀のお香を取り、眉間に持って行き、こんな感じで行うという無言の説明をしていた。

サー子は仕方なく義理姉が遣ってみせてくれた様子をゆっくりと3回遣り終えると、大声で「お父さんの事、よろしくね!」と言いながら、「良かったね〜」と数回繰り返して言っていた。

無事、葬儀を終えた。

斎場に姉を拘束するのも大変なので、姉が私の側に来て、「ありがとうね〜。」と言って、握手とハグをして、お別れすることになった。 私が父の写真を持ち、兄は父の棺と一緒に霊柩車に乗るのは嫌だというので、姉に納骨の壷を持って一緒に車に乗り込んだ。

御越し頂いた方に、お礼を申し上げ、ゆっくりと車が発車した。

斎場がある場所は山の天辺で風が冷たかった。

父の御遺体を焼く場所にも名前があるらしく、「さつき」だった。

姉が通っている作業所と同じ名前だったので、兄と私は顔を見合わせていた。

待ち時間の間、兄に「さっき、お母さんが憑依していたみたいだけど・・・。」と訊ねると、「おおじょうしたは、行き成り、おかーが来て、のり移ったと思ったら、ワシの身体を借りて泣き始めて、ワシは全然、悲しくもないのに、最後には、ヨシカツ、もー、ええんよ〜、お父さんはお母さんが連れて行くからね。心配せんでもえーけね。とか、言って、身体がどっと疲れたは・・・。」と、文句を言っていた。

私が「やっぱり、夫婦なんだね。愛してなんか無いとか、言いつつ、やっぱり、お互いに好きだっただね。」と私が言うと、兄は「どうでもええわ〜。」とむくれていた。

すこし休んでいたら、お骨収めの儀式があるのでと皆で移動した。

お骨を拾うのも三度。

亡くなった日が母が6日、前夫は16日、父は26日だと思った。

私にご縁がある数字なので、霊界に帰る日も決まっていたのかと思った。

その日、納骨を行う予定でいたので、導師に連絡を入れ、父が胃がんで手術をした後に、建てたお墓を見に行くのはその日が始めだった。

坂道が急なところへ、ヒールの靴で上がるのはかなり苦戦した。

ご住職はオートバイクで来て下さった。

「ご主人は何時に来るの?」とまた、聞かれた。 「予定通りでしたら、関西空港に午後5時過ぎごろだと思います。」というと、「あ、そうですか?」と言っていた。

15分ぐらいで終わった。

私がお布施を渡し、お礼を導師に申し上げていた。

姪っ子が「あの、お坊さん、カズコ姉ちゃんが封筒渡したら、にやっと笑っていたよ。」と言うので、「あ、そう。いくら入っているのか分かるのかね。」と言うと、兄が「そりぁ、指で厚みが分かるだろう。通夜なしで、あれだけ渡せばこの不景気では多いほうだろう。」と爽やかそな顔で言っていた。

無事に納骨も済ませ、その足で市役所、病院へ行ったり、葬儀代を支払いに会館に帰ったりして、時間を見ると、もう、午後5時ぐらいになっていた。

車の中から、夕日を見ながら綺麗だと思いつつ、あれこれ、遣りながら、ホテルへ行き、チェックインを済ませて、ベットに横たわっていたら、兄から電話が掛かり、「もう、下にいるけど・・・。」と言われて、降りて行き、「レストラン、予約できたの?」と私が聞くと、「年末だから、どこも忘年会で一杯らしい・・・。」と言うので、数軒、行くと「本日は90分以内でお願い致します。」と言われて、「昼なら分かるけど、夜で90分は少ないね。」と言って、六人中、4人が焼肉が食べたいというので、ある韓国料理店に私たちが行ったときには、一人もお客さんがいず、私たちだけの貸切状態。その夜は私たちだけだった。

私が「供養だと思って、しっかり食べてね。」と言うと、みんなもりもり、ぱくぱく・・・。

「サー子のキリスタンには、驚いたね。」と私が言うと、兄が「あついはしっかり見えてたね。おやじもさー子もキリスト教徒だっただね。前世は。」と言いながら、ビールをゴクゴク飲んでいた。

父の話をしながら、花が咲き、私も主人がどの新幹線に乗ったのか確認出来ないまま、午後6時ごろに、「いま、エアーポートなんだけど・・・。」と私の携帯に電話があり、「ウェルカム TO ジャパン」と私が言うと電話が切れた。その後、1分後に電話が掛かり、「いま、新大阪に行く予定・・・。」と言うので、「いくら公衆電話にお金いれたの?」と聞くと「10円」と言った瞬間にガチャンと切れた。

テレホンカードをどこで買うか伝えていたが、分からなかったのか。と心配しながら、飲んでいた後、ふと、携帯電話を見ると、着信履歴があったことに気づくのが遅すぎた。

どれかに乗って来るだろうと思いつつ、内心ハラハラ、ドキドキしていた。 甥っ子が羽目を外して、飲めないキツイ酒を飲んだようで、酔っていたので、タクシーを呼んで、帰るように言うと、姪っ子は

旦那Mに会いたいから二次会に参加したいと言って、義理姉と4人で、移動しながら、私が「もしかすると今の新幹線かも?」と言いつつ、駅に向かい、後ろから3人がゆっくりと着いて来ていた。

どうやら、次の新幹線に乗ったらしい。

二次会のフランチャイズのレストランに一旦行き、すこし、座ろったときに、「たぶん、この次の新幹線だから、行くね。ホテルに荷物置いて、来るね。」と言って、私はまた駅に向った。

数分待っていると、改札口で駅員さんに何やら聞いている旦那を発見した。

無事に一人で兄の引っ越した町に着いた。

ホテルに荷物を置きに行き、40日間ぶりの再会だった。

「御飯を食べたの〜?」と私が聞くと、「機内で食べた。」と言うので、「兄が待っているから、取りあえず、会いに行こう。」と誘うと、「OK」と言って、歩いて2分ぐらいのレストランに行きながら、「入国の荷物のチェックが厳しかった。この靴をかなり調べていたし、身体検査もされた。」と言うので、「豪州パスポートを使用したからじゃない、何か豪州であったのかもね。麻薬とか運んだりしているとか・・・。」と冗談ぽっく言っていたが、キプロスに向う機内で英字新聞が主人が読みたいというので、貰って読んでいたら、その通りだったらしい・・・。

旦那Mはキプロスに移住する前に日本に3週間ほどいたときに、兄に会ったきりで8年ぶりの再会となった。

午後6時過ぎぐらいから私たちはゆるゆると飲んでいたので、旦那にお酒を勧めても自分達はペースが遅くなっていた。

私がサー子の様子を旦那に説明すると、旦那は目を大きく見開き、「前世はサー子はカソリックの尼だったんだろうね。僕らから見ると身体障害者でダウン症だけど、宇宙や霊界との意識とは連絡が取れる高次元な魂の持ち主なんだろうね。それに、キリスト教で土葬だと、埋めるとき、砂を棺に3回かける習慣があるから、前世の記憶でお坊さんだと上に上がりそうでないから、彼女が代わりに霊界の魂に話しかけたんだろうね。お坊さんにお布施するよりも、サー子にすれば良かったのに・・・。」と言ったのを、兄達に通訳すると、「本当!その通りだ!」と言いながら、みんなを笑顔にしてくれた。

明日は「ワシが耕三寺に連れて行ってやるから、10時ごろには用意して待っておけよ。」と言いながら、旦那と兄は握手して別れた。

ホテルに帰って、私はパジャマに着替えて倒れるようにベットに横たわった。

何時だったか、青いオーラの父が現れて、目を覚ました。

次の日に、兄夫婦が迎えに来て、瀬戸田に向う途中にお墓に立ち寄って貰った。

お花とお線香、お水をお墓にかけて、主人は「お父さん、こんな景色の良いところで良かったね。」と微笑んでいた。

その日から、主人と耕三寺Link

訊ねた方のHP Link

宮島、掃除、除夜の鐘、お年始に兄宅、新年会と送迎会を兼ねて、食事をレストランにて、その後、京都を連泊で散策、長旅の飛行機に乗り、使命を終えてキプロスに帰って来ました。

気持ちはとっても穏やかです。

また、田舎にいるときに、お墓参りの代行、掃除もしているところを発見したので、依頼しました。

ゆっくりペースですが、キプロス生活に慣れて行こうと思っています。

今回、旦那が日本に来たときに、近い将来、日本に住んでみるのも賛成してくれました。

お気遣い頂き、メール、メッセージ、お電話等下さった皆様には、心より感謝しております。

ありがとうございます。

カズコ

合掌

buda

— posted by カズコ at 06:03 pm   commentComment [4] 

お別れの日まで  死を迎える日

11月11日に救急車で運ばれてから、お別れの日まで短い間でしたが、2つの病院を体験させて頂きました。

最新医療を施した病院に入院していた際、24時間体制で父の面倒を見て下さいました。

看護婦さん、看護士さん方も、一生懸命に父の面倒を見て下さいました。

転移する際にも、多くの看護婦さん達に、父にお声をかけて下さいました。

出来れば、その病院にそのままいさせて頂きたいと思いましたが、救急患者がひっきりなしに救急で運ばれ、手術をして入院する病院なため、病気ではない父を長期入院させることは出来ない状況で新たな受け入れ先が決まり次第、転移することになりました。

看護学生の男子の彼は本当に父に接するごとく、優しい言葉をかけて下さり、救急車に父と私が乗り、悲しいそうな目でお見送りをして頂きました。

私にとっても、その日は思い出深い日となりました。

ただ、人はこの世で最後の最後まで、最後の瞬間にでも人との出会いがあることに感謝しました。

誤嚥肺炎で高度な栄養失調なため、いつ、死んでもおかしくない状態で、転移した病院で父はいつも口をもぐもぐさせていました。

床ずれで体が痛い上に、手も足も腫れて痛みと戦う姿を見る度に、足を摩って、すこし楽になったのか、眠り始め、霊界に行ったり、父が生き、住んだ場所に行ったりしていたのか、「いま、京都に行ってXX(父の弟)の所へ、行って来たよ。」と言ったり、私が「誰か来た?」と聞くと、「まだ、誰も来ない」との返答でした。

眠っている時間が増えて来ました。

目も目やにだらけで、私が拭こうとすると「痛い!」と言って嫌がっていました。

転移する前の病院では、いつも体を拭いて下さったり、ひげも毎日剃って頂いていました。

父は毎日ひげを剃る人だったので、電気カミソリも入院の際に持って行っていました。

転移先の病院はひげが伸びても放置状態だったので、私も気兼ねして言いませんでしたが、これはひどいと思い、髭剃りを頼んだら、返事はして下さったのですが、次の日も、数日経ってもひげは伸び放題でした。

看護婦さんに頼んでお願いして、次の日に適当にした感じでした。

お父さんに「ごめんね。」と言うと、片目をすこし開いて「何?聞こえん!」と返答が返って来ました。

寝たきりの状態で点滴だけでも人には寿命があるのでしょう。

何度も急変し、心の準備をして行きましたが、お医者さまから「安定しました。」と言われて、胸が押し付けられる痛みと涙が目から溢れて来て、覚悟はしていても、やっぱり、死と向き合うのは悲しかったです。

日本滞在を1ヶ月間として、飛行機のチケットを購入していたので、変更するか、そのまま、キプロスに一度帰国するか、悩みました。

年末に差し掛かっていたので、チケットの変更もいつもよりも3倍高い値段で変更することになるので、どうしようかと悩み、キプロスに帰ってもこの状態だとまたいつ日本にトンボ帰りになるのか分かりませんでした。

主人と相談して、「キプロスに帰っても落ち着かないかも知れないので、延長しようと思うけど、あなたは有給が取れるのか?」と訊ねると、「たぶん、取れるけど、クリスマス前は無理だから、それ以降になるけど、調整して貰うね。」と電話で話したときに言われ、「取りあえず、私の日にち変更を先にしておいてね。」と頼み、すこし日本に長く滞在することで焦りが減りました。

実家の側に長年いた兄が10月に隣の市に引っ越して行ってから、父は使命が終わったかのように、急激に体が弱ったようでした。

実家は寒く洗濯も手洗いだったので、「お前用に新しい布団も揃えたし、こっちから病院に通った方が良いのでは・・・」と提案されましたが、兄宅はとても心地良いのですが、私自身一人の時間も持ちたい気分のときもあるので、ときどき、兄宅に泊まりに行っていましたが、行くと食べに行こうと言って私がすべてを支払うことになるので、高くなるので考えならが、行っていました。

行けば行ったで、色々と家族の話になり、私としては早く寝たいときもあるのですが、ダラダラと話していたら、気づくと午前12時が過ぎていました。

葬儀の事を話し合うと、兄は絶対に父の葬儀には参加しないときっぱりと言い切っていました。

兄曰く、「幼いころから酒癖の悪い父に何度殴られ、虐待されて育ったか数え切れない、恨みはあっても、愛しいとか何かして遣りたいとかも思わない。」と恨みの念が強いようでした。

そんな兄は義姉の父親が入院したり、老人ホームに入るにあたって市役所に行ったり、義理の父親の洗濯をしに行ったり、面倒を見ているようでした。

私がキプロスに帰った後、父が亡くなったら誰が喪主をするかと言う話になっても「ワシは絶対に葬式にも出ないし、お前が帰って来れない場合は、XX(姪っ子)にさせれば善いではないのか・・・。」と気持ちは難くに曲げれない様子でした。

そんな兄の気持ちを父は知ることなく・・・。

久しぶりに一人寂しいクリスマスを向かえ、その日は日曜日だったので、主人と話をした後に、体力的にもゆっくりしたいので、父の顔を見に行かなかった唯一の日でした。

兄には「お前が病院に毎日行っている間はあいつは死にはしないだろう、それにお前が行けば、ヒーリングしに行っているようなものだからな・・・。」と何度も言われていました。

主人を年末年始呼び寄せるため、私の田舎に空港から来れるか、どの経路で来ると一番安心かなども考えたり、大晦日に父宅では寂しいものがあるから、その日はホテルを取ろうとしても満室状態。

インターネット回線が繋がっていないので、電話帳とにらめっこして、主人が来たら除夜の鐘も撞きたいだろうと思い、色々と考えたり、電話をしたりバタバタしていました。

唯一の楽しみは湯船に浸かる寝る前でした。

12月26日 月曜日

バスの時間に合わせて、朝から掃除をしたり、洗濯したりしたら、早起きの兄から電話が掛かり、「病院、何時に行んか?」と聞かれたので、「10時6分のバスで行くけど?」と私が答えると、「じゃ〜、迎えに行ってやるから、待っとけ!」と言われ、すこし考えたが「10時には迎えに来てね。」と言って電話を切った。

直行で父のいる病院に行ってくれるのかと思いきや、何やら買い物をしたいらしく、色々と色んな場所に移動・・・。

お正月も近いので、買い物したい様子。

「Mが来たときには、どうする予定にするのか決めたのか?」と聞かれたが、「大晦日と、来年に京都に4泊する予定でホテルは

取ったけど、あとは、未定にしている」と話しながら、「ふ〜ん」と兄に何か計画があるのか、ただ、聞きたかっただけなのか?と思いつつ、「ねぇ〜、病院に行かなきゃいけないだけど・・・。」と言うと、「昼飯一緒に食べて行けば?」と言われ、「何か食べたい物があるんか?」と聞かれて、「普通のカレーが食べたい。」と私。帰国してから一度もカレーを食べてなく、

なぜ、カレーが食べたかったのか分からないが普通のカレーが食べたかった。

意外と普通のカレーが食べれる場所がなく、車でうろうろ、食に拘りがありすぎる兄と食事をすると、探し始めて食べるまで、時間が掛かるから、途中で「カレーじゃなくてもいいから、何でも良いから、適当にファミレスで良いよ〜。」と私も途中イライラし始めたので、ファミレスへ行くと混んでいるので待つから兄は嫌らしかった。

私も「もう〜、何でも良いよ!本当に!12時30分過ぎているし。」と怒った口調で言っていたら、「分かった、じゃ〜」と言いながら、なぜか車で40分もかけて地元付近に帰って来ていた。

兄と義理姉はカレー以外のエビフライ定食、日替わりランチに義理姉は拘りがあるのか、いつもどこに行っても昼間は日替わりランチを注文していた。

私はカレーライスとサラダを注文して食べ終わった。

喫煙家の兄はすでに外でタバコを吸って待っていた。

レストランを後にして、「駅辺りでいいから降ろしてくれたらいいよ。」と私が言うと兄が「うん、分かった。」と返事した後に、プルプルと兄の携帯に電話が入った。

運転中だったので、姉が電話に出ると病院からだった。

「お父さんが、急変しました。すぐに病院に来てください」と言うので、義理姉が「妹がいますので、変わります。」と私に代わり、「はい。行きます。」と返事をして、兄の所に電話が行くということは?「ねぇ、別に他の用事がないなら、病院に行ってくれる?」と兄に言うと「分かった。」と返事をして、病院に到着した。

面会者がその時間は多かったので、病院の駐車場は止めるとろこがなかったので、「病室に上がるから、待ってて・・・。」と

私はせわしなく病室に向かった。

おとといまでいたベットが病室になかった・・・。

個室に移されていた。

お医者さんと看護婦さんが移動した個室に案内してくれた。

目が開けれなかった父の目が半開きに開き、口がぽっかり開いていた。

すでに亡くなってからの連絡だった。

一日会わなくて、ここまでやせ細るものかと驚いた。

兄が下で待っているので、下に降り、「お父さん、亡くなってしまった。」と告げると「一緒に来て」と言うと、「なんで、ワシが行かんと行かんのか〜。」と物々と文句を言っていたが、「いま、ここにいるんだし。」と言うと、しぶしぶと靴を脱ぎながら個室に行き、お医者さんが「最後の診断になります。」と脈を計ったり、小型の懐中電灯で父の目に光をあてていた。

「ご臨終です。ご愁傷様です。」とお医者さまが言い、看護婦さんから私たちに「最後にお一人ずつ、お父さんのお顔を拭いて差し上げて下さい。」と温かいタオルを渡され、私が最初に拭き、兄が拭くときに「ここまで、やせ細るまで、よ〜う、頑張ったな、おやじ・・・。」と言いながら、拭いていた。 その後、私はバタバタと葬儀の手配をするにあたり、27日が友引になるので、28日に葬儀をすることになった。

葬儀の場所に行かなければならないので、兄にお願いして葬式にも参加することを検討して貰ったが、「ワシは絶対に出ない・・・。」と声を張り上げて、言っていた。

続く

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— posted by カズコ at 07:29 pm   commentComment [4] 

お別れの日まで  帰国

振り返ってみると、2011年3月11日は東日本の大震災、さらに、キプロスも7月11日に海兵隊の倉庫が爆発した為に、1ヶ月半も一日平均4時間ほどの突然停電が続き、それでなくても、8月のキプロスは砂漠のように暑く、猛暑が続き、11月になっても暑い日が続いていた。

週に2回ほど国際電話で父と話す習慣があった。

去年の年明け頃から、喉の調子が芳しくないと病院に通っていた。

悪性の胃がんだと診断され、手術をしてから5年以上経って、私が言っても、他の人が老人ホームに入るように言っても、首をたてに振ることなく、頑なに拒み続けていた。

支援1から支援2にして貰い、通いのヘルパーさんが週に何回も来ると、気兼ねするからと言っては、私にあれしてくれ、これしてくれと依頼する度に、「時差があるから、明日になるからね。」と言うと、「なんで、今日中に出来ないだ。」と腹を立て、私と度々、電話で喧嘩になったりした。

昭和一桁の父世代は何でも自分でしなければ気が済まない性分だったうえ、難聴者の父には、誰かと共同生活は苦痛に感じたのであろうと思える。

2年に一度、父に会いに帰国していたので、2011年の秋ごろに帰ろうと思いつつ、国難の日本に帰ることを躊躇していた矢先、何度、電話を掛けても電話に出ず、数年前に倒れて疼くまっていたのを元民生員さんが発見して、救急車を呼んで下さったことが脳裏を過ぎった。

去年の夏ぐらいから、声の調子も良くなく、電話する度に寝ていることも多く、近所の人にメールをして様子を聞いたり、応答がない夜には、倒れているかもと思い、ご足労頂いた後に、11月11日に誤嚥肺炎で自力で自ら近所の人に電話をしたが、留守だった様子でケアーテイカーさんに連絡をして、来て貰って、救急車で病院に運ばれたようだった。

その後、絶縁状態の兄に病院に行って貰うことをお願いしたが、拒否されたりした。

ケアテイカーさんによると、それほど大事に至らないというニュアンスであったが、無理を言って兄に父の容態を病院に見に言って貰ったときに「死相が出ているから、帰って来たほうが良いのではないのか?」という話になった。

主人と相談し、意識があるうちに会って様子を見て来たらと提案されたので、急遽、チケットを取り、バタバタと日本に帰国した。

機内にいる間に危篤になってしまっていたらと心配になったりしてゆっくり出来ず、朝一番に病院に行けるようにと地元のホテルを取り、その足で病院に向かった。

父に声を掛けたが、私の顔を見ても「知らん!」と言って無視された。

主治医の先生、看護婦さん、病院の相談員さん、ケアテイカーさんを交えての父の状況を何度も話し合い、父に声を再度、掛けたが無視された。

スーツケースを空港から送っていたので、父の家に帰ることにした。

家に帰ってみると、救急車で運ばれたその日の状態だったのか、こんな状態で寝ることも出来ないと思い、夜の7時頃から掃除機を手に取り、掃除をしていたら、ガタガタと縦に家が揺れていた。地震だった。

そうこうしていると隣の方が、「かずこちゃん、帰って来たの?」とお越しになったので、立ち話したりして、もう、父はこの家に帰って来ることがないだろうから、大きな家電の処分をしないと行けないと思いつつ、畳に布団を敷いて寝た。

次の日も朝早くから病院に行き、父に話掛けたが無視されて、「知らん!」と言われた。

知らんと言う意味が分からず、どうしてと思いつつ、痴呆かも知れないと自分に言い聞かせた。

帰国後3日目の日に父が車椅子に座って、景色の良い場所で日向ぼっこをしながら看護学生の男子と会話をしていた。

私が近くに言って話しかけると、また、無視された。

その日は11月中旬だったが、青空で汗が出て来るぐらい暑い日だった。実家から朝、ダウン症の姉が通っている作業所に連絡をいれ、お昼ご飯が済んだぐらいに姉を迎いに行き、父に会わせようと父に「サー子を午後から連れて来るからね。」と告げると、鬼のような顔で「サー子はどこにおるんか?」と聞かれた。

サー子には反応するだと悲しくなった。

ミイラのようにやせ細った父は私を忘れてしまったのか。

タクシーで姉の居る作業所へ行き、ランチが終わった後に決まった習慣があるらしく、タクシーを待たせていたが、お構いなく、しっかりと歯磨きをしていた。

そして、父に姉を会わせ、時間が来たので、姉をタクシーで送って行った。

別件で自宅に帰らなければならなかったので、その日は父に帰ると言って帰った。

次の日に父にあったが、怒った顔をしていた。

私が「お父さん、来たよ。」と言うと。無視されたが、話かけると「お前は誰だ!」と言われ、「カズコだよ。」と告げると「カズコだったら、ワシの保険書を持っているだろう?」と聞かれた。私が「持っているけど?」と言うと、「見せてみろ!」と問われて、カバンから出して見せると「銀行のカードもあるだろう?」と聞かれ、見せると、「カズコか。いつ帰って来た?」と「ごめん、ごめん」と何度も言いながら、握手を求めて来た。

破傷風になっている手で何度も握手をして、「旦那に迷惑かけるな、まさか、帰って来てくれると思っていなかったから、カズコに似た人でワシを騙そうとしているのかと思っていた。」とくぼんだ目を細めながら、ニコニコと話していた。

会えたことが嬉しかったのか、興奮状態で元気な声で数時間話をした。

その日が一番元気でまともな話をしていた。

その後は、喉に痰が詰まったりして、吸引して貰ったり、体調が良くない感じだった。

しかし、体調は悪いが安定した感じだったので、違う病院を紹介して頂いたり、その話合いをしたり、姉の件、葬儀の件、家の大きな家電の処分、兄家族の悩みを聞いたり、毎日、病院通いをしながら、すべての家電を処分したので、寒い時期にコンビニ弁当を寒い古い家に帰って食べながら、知らず知らずに涙が頬に流れていた。

いくら日本語が出来るからと言って、2年ぶりの地元に帰り、病院通い。

寒さと孤独さに負けそうになることもあった。

最新設備の新しい病院から父のような状況の患者さんがいる病院に移動しなければならない為に、転移する病院の先生とお話したり、その先生には「延命治療をしないなら、自宅で看取ったら?」と言われたので、「自宅で看取ります。」と言い、兄、主人、病院の相談員さんに告げると、「止めておいた方がいいですよ。あなたが倒れますよ。」とアドバイスされ、兄も「お前はバカか?お前が死んだらどうするだ!」と言われ、主人にも「無理し過ぎないで、病院で死期を迎えるのが良いよ。」と、主治医も「プロに任せた方が良いのでは?」と言われ、病院と病院の連携が取れてなかったらしく、その後は転移する病院の先生も自宅介護の件は言わなくなりました。ただ、延命治療を希望しないのであれば、「文章で一筆書いて、捺印して下さい。」と言われました。

家に帰る途中に封筒と便箋を買い、いざ、書き始めると何度も、なぜか、「お願いします。」と書いてしまい、お願いしませんと書く機会がないため、やっぱり、お願いした方が良いのかと思う気持ちになりました。

続く

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— posted by カズコ at 05:13 pm   commentComment [2] 

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