ご朱印を求める人々

ご朱印を求めて神社仏閣に行列をなす人々は、心のなかでどのような感情や感覚によって突き動かされているのでしょうか。

本当に心を込めて一心に書いている神主さんやお坊さんたちの姿にはとても感謝の気持ちが湧きあがってきます。

人々の心が、信仰という言葉を忘れた時代、神社仏閣は、今やほとんどが観光めぐりのコース化しているのが、現代でしょう。

本来、神様に向かう時の心は、純粋に神様に感謝するというのが、ごく当然のことだったと思うのですが、最近は、頂いたご朱印をネットオークションで販売しているという。 全く信仰としてではなく、金儲けの種を仕入れに行っている感覚なのでしょうか。

心が寒いというのは、このような時のことかなと思う。

ご奉志としてさほど高くない金銭で書いてくださる事にたいして感謝の心を持てたなら、このような行為は決してできないと

思いますが、なぜ、感謝の心が湧いて来ないのでしょうか。

私たちの社会環境は、心を育ててこなかったということなのでしょうか。

中国からの観光客がマナーが悪い、ルールを守ることができないなど、嘆くことがいっぱいなのですが、日本人も、心がどんどん荒廃してきているように感じます。

最近の社会で起きる事件も、自分自身がどのような事をするために、今の仕事についているのか、それぞれが立場を忘れて犯す事件が大変多いと感じます。 神社に参拝する時、神様、宝くじが当たりますようにと願うのは、全く意味のないことです。

実は、神様は、お金に対しては全く無頓着ですから、その様な祈りには、無関心なのです。

神様は、命を大事にし、健康で、他者の幸福を祈れる人々のきれいな心に関心を持ちます。

その様な祈りをした者に対して感じ取りますので、自然に神さまのご縁起を頂くことができるのです。

家族の分とか、来れない病人のためとか、どのような言いわけをしても神様にはお見通しなのですから、無駄な抵抗というものです。

ちょっとしたお金を稼ごうとご朱印を手に入れて売りさばいたとしても、そのせいで本当に助けてもらわなければならない時に助けてもらえない辛い目に合ってしまうことを考えてみてください。

ご朱印を書いてくださる人の思いを考えてみてください。

自分がしていることが、人としてこれで良いと思えるかどうかを常に考えられる人になってくださることを願います。

目先の事よりも人生を通して『人』になってください。

— posted by holy at 05:50 pm   pingTrackBack [0]

視えない世界と見える世界が繋がった瞬間

パソコンの中を整理し、あらゆる思い出をカットして、やっとパソコンが動くようになり久しぶりにブログ更新できることがとても嬉しいです。

絶筆かと思っていましたが、再起できそう。オーバーのようですがほんと寂しかったです。

丹波哲郎先生が亡くなってから始めたパソコンですが、今年で十年です。 パソコンがストライキを起こしたなんて冗談言ってましたが、実はノートパソコンで十年使っている人はあまりいないそう。 そろそろ買い換えた方がいいですよとアドバイスをうけました。

最近の製品は、殆んどがそうですが姿形は何も変わっていないし、摩耗しているようにも見えないけれど、中身だけ変えるという訳にもいかず、使い捨てするしかないというのがエコではないなといつも感じてしまいます。

さて、私たちはこの霊界サロンでそれぞれが、見えない世界を視て来たと言う実感を持っている人たちも多くでてきているのではないかと思いますが如何でしょうか。

見える世界、それは肉体、物質、その他肉眼で見える世界。

見えない世界とは霊眼で視る世界。つまり、霊体および精神世界といっても良いと思いますが、だれでもが視える世界ではないために、賛否両論が起きているのです。

丹波哲郎先生が、私費を投げ打って、家族を犠牲にしてまでこの世に残して逝った人類へのギフトは、大変大きな財産だったとあらためて敬服です。

ご家族には、大変寂しい思いをさせてしまったことは、取り返しのつかないことであったとお詫びしかありません。 亡くなってからも私たちは、丹波哲郎という一人の人生を占有してしまったことを、こころからお詫び申しあげます。

しかしながら、この世に肉体を持って存在した頃には、届かなかった世界とこの地上界に存在するものを瞬時にして繋ぎ、アドバイスやヒーリングをしてくれる丹波哲郎という視えない世界に存在するエネルギーとなり、光となり、サポートしてくれることをどのような言葉で伝えたら良いのでしょう。

十年祭の日、江原裕之さんに

今日のこの日に駆け付けてくれたことですべてのことが洗われ、許しあえたことを確認し、大変嬉しい。

自分の心にささる棘は、お互いが、許し合うことでしか洗われないし、個々の事も世界のこともそうであると思う。

という丹波先生からのメッセージを私は会場にて受けて、、。

くしくも、江原さんのご挨拶にも同じようなフレーズがあったことで、私の心は、何かを激しく感じ取り、涙があふれた。

それは、果てしなく広がる感動であり、喜びの涙であった。

視えない世界の存在と見える世界の存在の心の波長が一寸の狂いも無く繋がった瞬間。

表現できる言葉は無かった。

ありがとうございます。ただ感謝のみでした。

— posted by holy at 11:36 pm   pingTrackBack [0]

BOSSありがとう祭10

丹波先生が天界へ還られてから10年。

感謝祭を港区のホテルで開催しました。

丹波先生と親しくお付き合いをされていた仲間たちとご縁のあった人たちが集まって楽しいひとときを過ごしました。

今回は特に、丹波先生が美輪明宏さんと一緒にオーラの泉の流れをつくり、大活躍されたおなじみの江原啓之さんが

特別においでくださり、丹波先生は、還られてからも待ちわびていましたので、大変なお喜びようでした。

そして長年支えてくださった坂井典子マネージャーに対しても、感謝の念を届けてくださいました。

それでは、少しだけですが、その時の様子をスナップ写真でご覧下さい。

DSC0504

写真のアップに失敗しましたのであらためてアップ試みてみます。

— posted by holy at 09:56 pm   pingTrackBack [0]

丹波哲郎先生10周年忌

丹波哲郎先生が、天界へ還られてから10年が過ぎました。

私の心の中には、常に生き続けていて、相談者のことで私が悩む時や、落ち込む時などには、正しく、時には、厳しい指導

を入れてきます。

スピリットとの対話は、心がどのような状態にあるかで、受け取る側の理解力は、かなり大きく違ってきます。

自分の心が、ひがみっぽかったり、不安だったりすれば、スピリットのメッセージを歪めてしまうおそれもあります。

スピリットからのメッセージを求める時は、常に心をピュアーにして、素直なこころでメッセージを受け取る必要があ

ります。

また、自分自身についての評価も、自分で評価したりせず、真っ白な状態でスピリットからのメッセージを受け取ることが

大事です。

肉体次元の感情を優先させると、普段の自分では考えられないような不愉快な想いを体験したりして、非常につまらないこ

とになったりします。

丹波哲郎先生のメッセージは、やや、イエス・キリストからのメッセージに似てきたように感じます。

例えばつい最近のことですが、いつも、どのような事でも、疑いの心が強く、そのために社会に一歩踏み出せない人、

人が自分の能力を理解せず、会社へ入っても、パワハラに逢うかも知れないという不安に襲われて、面接すら受けに行けな

い人、

そういう人は、目の前でアドバイスを頂いている人の優しささえも、自分を騙すための手法なのだろうと思うようです。

大変がっかりする出来事でしたが、今度は私の方が、このような人は、なにをどう尽くしても、無駄なのではないだろうか

私がモットーとする『愛』を尽くすという点でも、どのように尽くしてもその心が届かない人も存在するのではないだろう

かと思うようになったしまったのです。

そこに丹波先生からメッセージが入りました。

『自分にとってもっとも困難と思う人、信じることが難しい人、そのような人こそ、あなたがしっかりと教えて、導かな

ければならない人でしょう。自分の感情を出してはいけない、見捨ててはいけない、頑張りなさい』と。

ううん、、、。

暫く瞑想をして、丹波先生のメッセージを受け入れることにしました。

丹波先生は、自分の感情にとらわれるのではなく、求めるものがあれば、それも、縁だと。

必要があって縁が結ばれ、必要があって、あなたに関わるのだから、それを無視してはいけない。

この世で起きることは、すべてが、学びなのだと。

真剣に取り組んでこそ、この世での仕事を全うするのだと。

ありがとうございます。

丹波先生、どうぞ、天界でお健やかでありますように、お祈りします。

合掌

— posted by holy at 09:36 pm   pingTrackBack [0]

あの世とこの世の嫁姑バトル

暫くの間、霊界サロンの話題が、時事放談のようになってしまいました。

霊界サロンは、人々の幸せのためにあることを考えたとき、政治はその国民の幸せ度を大きく左右すると考えると、社会の情勢を無視できない自分がいます。 それはさておき、今日はこの世と霊界で展開されている嫁姑バトルのことを書いてみたいと思います。

この話は、実際に起きたことです。

戦争によって父親を失ってしまった息子が、父亡き後、母と二人で助け合いながら人生の後半までも独身で過ごすことになり、母が年老いてからは、結婚することさえも忘れて、母の介護に明け暮れ、母を見送った時には、すでに60歳に手が届こうとしていた。 母と息子は、お互いがこの世で生きることに精一杯で、母は息子の事しかみえなくなっていた。

食事は、いつでも息子の好きなものだけしか興味が無く、自分の大好物も、戦後の貧困な中では、買うこともままならなかったのだ。

好物でも、子供に買ってあげられない高価な果物などは、あれはおいしくないから、大っきらいだからとか嘘を言って買わないようにしていた。

幼い子供は、母は、本当に果物が嫌いなんだと思い込み、自分も果物は、大っきらいになっていた。

しかし、供養する時、その母は、大きな房のブドウを食べたいと意識で伝えてきた。

息子は、母が果物は嫌いだと信じていたので決して果物をお供えすることはしなかった。

お嫁さんも勿論、旦那さんの言葉を信じて果物は、特に、ぶどうは、絶対にお供えしなかった。

あの世へ逝った者の声を聴くことができないこの世の者には、亡くなった人の希望に応えて上げることは並大抵な事ではない。

残された人が勘違いをしていても、あの世で待っている者にとって、自分の大好きなものを決して供えてくれないお嫁さんを好きになれなかった。

あのお嫁さんが来てから、息子は自分のことを大事にしなくなった。

しかも、自分の台所を断りも無く勝手に使ってほんとに許せないと思うようになった。

そして、あの世の姑は、お嫁さんに敵意を持つようになってしまったのだ。

歌を歌ってもうるさいと思い、楽しげに息子と話し、幸せそうにしていることさえも、疎ましくなってしまった。 料理のことにもケチをつけるようになり、味覚についても、そのような味は、息子は食べないよと言い、味覚を変えるようにしむけた。 そうしているうちに、お嫁さんは、味覚が判らない病気になったしまった。

舌が痛くなって、食事もあまりできなくなっていき、体はまるで老衰、まさに骨と皮だけになるまで痩せて、体重は36キロ前後を推移した。

病院に行っても、原因不明、症状はかなり深刻なのに、病名すら付かないので、治療ができなかった。 私は、本人には、内緒で浄霊をしてみた。

1か月間続けてやっと、霊としての自覚ができるようになって、本当の意味で霊界へ逝くことができたのだ。

今、お嫁さんは、食事の量が少しづつ増えて、体も丸みを帯びて、笑顔を取り戻している。

霊障によって、命を失ってしまう寸前まで行ってしまっていたけれども、寸前のところで、霊の声を聴くことができて良かった。

しかし、お嫁さんは決して亡くなったお姑さんを粗末にしたわけではなかった。

お墓参りも行っていたし、日々のお供えもちゃんとしていたはずなのに、歯車はかみ合っていなかった。

好き嫌いの思い込みは、息子の思い込みであって、お嫁さんは何も悪いことはしていないのに、やはり、親子の絆はお嫁さんより強いのでしょうか。

— posted by holy at 04:24 am   pingTrackBack [0]

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